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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第2章 王都グランゼル

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第39話 届かない言葉

 ラスの街を出て半日が経っていた。

 街道は夕方の橙色の光の中をなだらかに丘陵地帯へと登っていく。かつて獣人の交易で栄えた街道だと、馬車を引く老いた御者が誰にともなく呟いていた。今では行き交う旅人もまばらだった。


 日が完全に落ちる前に、街道の脇の窪地で馬を休めることにした。

 俺たちが選んだ夜営地は、岩肌に守られた小さな窪地だった。風が直接当たらず、火の光が遠くから見えにくい場所。ガレリアでもラスの街でも、商人の旅では何度も使ってきたありふれた選定だった。


 ガランが無言で薪を集めてきた。

 ノクトが火打ち石で器用に火を起こした。裏路地で覚えた手つきは、街道の野営でも一度も詰まらなかった。

 乾燥肉とパン、それから水筒の薄い葡萄酒。それがその夜の食事だった。

 誰も味の話はしなかった。


 食事が終わる頃には、日は完全に落ちていた。

 空には星が出ていた。ラスの街の派手な看板の灯りに目を慣らしてきた俺の目には、その星々は嘘のように冷たく、嘘のように静かだった。


 焚火の周りに五人が座っていた。

 ガランは火から十数歩離れた岩の縁に立って、闇の方を向いていた。背中だけがこちらを向いていた。見張りに立つと彼が短く言ったのだ。誰もそれを止めなかった。彼の背中は焚火の橙色の光を半分だけ受けて、残り半分は闇に溶けていた。

 俺は火に薪を一本足した。

 火の粉が上昇気流に乗って、星のない空へ昇っていった。


 しばらく、誰も口を開かなかった。

 時々、馬が鼻を鳴らす音と火の爆ぜる音だけが夜気を埋めていた。

 俺の隣でノクトが膝を抱えて座っていた。少年の目は火を見ているのか、火の向こうの誰かを見ているのか判然としなかった。

 火を挟んだ向こう側に、レオンとエレーヌが肩を並べてではなく、少しだけ間を空けて座っていた。レオンは聖剣を膝の上に置き、両手をその上に組んでいた。エレーヌは杖を抱えるようにして火だけを見つめていた。二人の間に少し開いた場所――そこに、レオンが自分のマントをほどいて畳み、地面に敷いていた。イリアがその上に静かに腰を下ろした。法衣の白さが焚火の光を受けて橙色に染まっていた。彼女の頬には、まだ涙の乾いた跡が薄く残っていた。


 ラスの闘技場での出来事を誰も口にしなかった。

 闘技場の砂地。崩れ落ちたエレーヌ。動けなかったレオン。砂に額をつけて泣いたイリア。片膝をついたまま大盾を離さなかったガラン。そして白銀の鎧を纏った王子が、たった一言で全てを上書きしていったあの光景。

 誰もそれを言葉にしなかった。

 言葉にすれば形が確定してしまう。形が確定すればもう変えられない。

 俺たちは皆、それを知っていた。


 俺は火を見ていた。

 ラスの街を出てから半日、馬車の中でも誰一人としてラスの闘技場の話をしなかった。それは沈黙ではなく、避けたのだと俺には分かっていた。

 俺自身、避けていた。

 誰かが口を開かない限り、この沈黙は朝まで続く。そう思った。

 いや――誰かが口を開かない限り、この沈黙は王都に着くまで続いてしまう。


 最初に口を開いたのはイリアだった。

 彼女は誰の顔も見なかった。ただ火の中の一点を見つめて、ぽつりと言葉を落とした。


「……壊れた心は理屈では救えないんです」


 火が一度爆ぜた。レオンの組まれた手がぴくりと動いた。彼は何か言いかけて、イリアの横顔を見て、口を閉じた。エレーヌが目を伏せた。

 ノクトが俺の方をちらりと見上げた。少年の目には戸惑いが浮かんでいた。今、自分が何を聞こうとしているのか彼自身が分かっていなかった。

 俺は何も言わなかった。

 言葉を返そうとして、口を動かそうとして止めた。

 ここで返せる言葉を俺は持っていなかった。

 イリアが続けた。声は震えてはいなかった。むしろ奇妙に静かだった。


「ゼンさんのお言葉はすごく賢くて、優しくて、いつも私たちを助けてくださいます。本当に感謝しています」


 彼女は両手を膝の上でゆっくりと組んだ。


「でも私たちの中には――ゼンさんの賢いお言葉でも、決して届かない場所があるんです。レオン様も、エレーヌ様も、ガラン様も、私も皆、同じ場所に傷を抱えています。三年前からずっと同じ場所です」


 ガランの背中が闇の縁でほんのわずか動いた。

 ほとんど気づかないほどの動きだった。だが俺の右目はそれを捉えていた。


「ラスの闘技場でまた見せつけられました」


 イリアは火を見つめたまま続けた。


「私たちは自分の力では悪魔を倒せない。バーサーカーを倒せない。私の祈りも、レオンさんの聖剣も、エレーヌさんの魔法も、ガランさんの大盾も――三年前から根本的なところで何も変わっていないんです」


 レオンが組んだ手のその上に額を伏せた。

 エレーヌが目を固く閉じた。

 ガランは不動だった。だがその不動の中に、何かを耐える気配があった。


「ゼンさんは勇者一行に加わってから、いつも私たちをお助けくださっています。ガレリアの街でもラスの街でも。皆、ゼンさんに感謝しています。だから今夜、聞いていただきたいんです」


 彼女は初めて火から目を上げた。

 そして俺の方を真っ直ぐに見た。

 涙はまだ流れていなかった。だがその瞳の奥に、長い間誰にも語らなかった何かが揺れていた。


「私たちが何を抱えてきたか。三年前、何があったのか。――今夜お話ししてもいいでしょうか」


 レオンが顔を上げた。彼の蒼い瞳がイリアの横顔を見つめていた。何かを止めようとして、止めなかった。


「……話していい」

 低く、彼はそれだけ言った。

 イリアが小さく頷いた。

 俺は火を見ていた。

 頭の中で無数の応答が一瞬で組み立てられかけた。

 無理して話さなくていい。時間が癒す。あなたは強い。

 その全てを捨てた。


 俺は低く、それだけ答えた。

「……聞かせてくれ」


 イリアが小さく頷いた。

 彼女はもう一度火を見つめた。

 火が彼女の瞳の中で揺れていた。

 その揺れの中に、彼女がこれから降りていこうとしている過去の輪郭がほのかに浮かんでいた。


「……三年前のことでした」


 彼女は両手を膝の上で重ね、それからその手をじっと見下ろした。


「私は孤児院にいたんです。シスター・マリエル様が運営していた小さな孤児院でした。私自身もそこで育った孤児で、十四歳の時、シスターのお手伝いをするのが私の毎日でした」


レオンの組まれた拳が、聖剣の鞘の上で一度きつく握り直された。


「下の子たちにご飯を食べさせて、洗濯を手伝って、夜は皆で同じ部屋で眠る。――そういうささやかな生活でした」


 彼女の声が空気の中にゆっくりと溶けていった。

 ノクトが息を止めていた。

 レオンが額を伏せたまま動かなかった。

 エレーヌが目を閉じたまま、唇だけを微かに噛んだ。

 ガランの背中が闇の縁で不動のまま聞いていた。


 俺は火を見ていた。

 彼女の声が夜の空気に溶けていった。


 その声と共に、俺たちは皆それぞれの形で――三年前へと降りていった。


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