第38話 聖なる光
闘技場の天井が、丸ごと抜け落ちたのかと錯覚した。
ゼクスの指先の小さな点から、太陽を何十個も圧縮したような純白の光が、バーサーカーめがけて一直線に放射された。
その光は、優しさなんて欠片もなかった。
温かみもない。
ただ冷徹で、機械みたいに正確で、不純物を焼き尽くすためだけに作られた、狂気じみた処刑道具だった。
「ギィィィイィィィッ――!!!」
バケモノが、鼓膜を突き破って脳髄を直接引っ掻くような、この世のものとは思えない悲鳴を上げた。
俺は咄嗟に両耳を塞ぐ。イリアが砂の上で耳を押さえてうずくまり、エレーヌが膝から崩れ落ち、レオンは目を見開いたまま石像のように固まった。
光の奔流の中で、バーサーカーを覆っていたドス黒いモヤが、ジュワジュワと蒸発していく。
悪魔の絶対的な復元力が、光の暴力の前でボロボロに崩壊していく。
何層にも重なった皮膜が、一枚、また一枚と燃えカスになって散っていく。
そして――バケモノの外殻がペロリと剥がれ落ち、中からゼッドの肉体がボトッと砂の上に吐き出された。
丸々と肥えた、全裸の老いた男。
上等な絹のローブは消し飛んでいる。皮膚にはモヤが張り付いていた赤い火傷の跡が残り、白目を剥いてビクンビクンと痙攣していた。
だが、その肉体は確かに、ただの人間のものに戻っていた。
ゼッドから引き剥がされた悪魔の本体が宙へ浮かび上がる。
それは人間の影を無理やり引き伸ばしたような輪郭を保ちながら、純白の光の中で苦しげに身を捩った。
ギィィィ――
断末魔は、プツリと途切れた。
光に飲み込まれ、モヤは跡形もなく消滅した。
そして、轟音と共に迸っていた光も、スッ、と嘘のように消え去った。
アリーナに、耳が痛くなるほどの静寂が落ちる。
さっきまでの狂った熱気も、悲鳴も、息が詰まるような重力も、全部、一瞬で幻みたいに消え失せた。
残ったのは、砂の上に転がる哀れな全裸の男と、巨大なクレーター。そして、その中央に立つ王子だけだ。
ゼクスは、突き出していた左手をゆっくりと下ろした。
肩で息をするどころか、呼吸のペース一つ乱れていない。
真っ白な額には、汗の一滴も浮かんでいなかった。
白銀の鎧が、午後の斜光を受けて、何事もなかったかのように静かに輝き続けている。
ふと視線をやると、イリアが砂の上で激しく震えていた。
祈るための手はまだだらりと下がったまま。彼女は両目をカッと見開き、ゼクスが左手を下ろした空間を、食い入るように見つめている。
唇が、わなわなと震えている。声にはなっていないけれど、口の動きが確かに何かを紡いでいた。
「シスターと……、あれは、あれは……、同じ、同じ、色……」。
イリアの白い頬を、大粒の涙がボロボロと伝い落ちた。
彼女は砂の上に両手をつき、子供のように肩を震わせて泣きじゃくった。
俺は、ただそれを見つめていることしかできなかった。
ゼクスが、身体ごとゆっくりと勇者一行の方へ向き直った。
冷たい青い視線が、レオンをなぞる。
聖剣を構えたまま、ついに一歩も動けなかった勇者を。
視線が、エレーヌへ移る。
顔を覆い、しゃがみ込んだままの魔術師を。
視線が、イリアをなぞる。
祈ることもできず、ただ涙を流す治癒師を。
視線が、ガランへ向かう。
血塗れで片膝をつき、それでも大盾を手放さない獣人の戦士を。
――だが、ゼクスの視線はガランを完全に素通りした。彼にとってガランは、砂の上のシミか何かと同じだった。
そして最後に、ゼクスの視線が、俺でピタリと止まった。
数秒間の、重苦しい沈黙。
ゼクスの淡い瞳が、俺の全身を舐めるように見る。
冷酷で無機質な視線だった。
すぐに興味を失ったように、彼は勇者一行全体へ視線を戻した。
そして、静かに口を開いた。
「――王国の、飾りども」
乾燥しきった、冷たい声。
「お前たちは、何のために、剣を持っている」
言い訳を求めているんじゃない。
反省を促しているわけでもない。
ただ、絶望的な事実を宣告しただけだった。
レオンの顎の筋肉が、ギリッと音を立てた。聖剣の柄を握る手が、血の気が引いて真っ白になっている。
エレーヌは両手で顔を覆ったまま、ヒッ、としゃくり上げるような声を押し殺した。
イリアは砂に額を擦り付け、ただただ泣き続けていた。
ゼクスは、それ以上何も言わなかった。
砂に転がるゼッドの方へ歩み寄り、パチン、と短く指を鳴らす。
すると、上段のVIP席の方から、ガシャンガシャンと重い鎧の音がして、王国軍の兵士たちが駆け下りてきた。あの王子は、最初から軍隊を引き連れてここへ来ていたのだ。
ラスの街の領主ゼッド・バルザックは、意識のないまま兵士たちに乱暴に担ぎ上げられていった。
これで、あいつの領主としての首は確実に飛ぶ。
闘技場は王家に取り上げられ、直轄地になる。それだけは、完全に決まった。
俺は、割れたガラスの縁で、足に根が生えたように動けなかった。
俺のロジックは、届かなかった。
俺の言葉は、弾かれた。
俺が必死に組み上げた盤面は、悪魔の前で紙屑になり――そして王子の登場で、丸ごとゴミ箱に放り込まれた。
闘技場は潰れる。ゼッドは裁かれる。
でも、それをやったのは、俺じゃない。
あの場で食い殺されかけていた獣人を助けたのは、俺じゃない。俺は目の前の父娘ひと組を救うためにガランの命を天秤にかけ、結局、最後は王子のお出ましで全部持っていかれたんだ。
二日徹夜して練り上げた計画。
蝋燭の火を頼りに書き殴った試算表。
ノクトに託した封書。ガランに強いた覚悟。水晶を叩き割り、羊皮紙を燃やした、あのヒリヒリするような駆け引き。
そのすべての結果が、これだ。
勝ったのは、ゼクスだ。
俺の盤面は、ひっくり返されたんじゃない。盤面ごと、丸ごと奪われたんだ。
ゼクスが、VIP席の方へ背を向けて歩き出す。
一度も振り返らない。
勇者一行にも、助かった父娘にも、そして俺にも、もう一瞥もくれなかった。
白銀の背中が、静かに消えていく。
闘技場に残されたのは、勇者一行と、父娘と、俺と気絶したゼッドを運んでいく兵士たちだけ。
遠くの方から、騒ぎを聞きつけた街の連中のざわめきが、風に乗って微かに聞こえてくる。
アリーナの真ん中で、イリアの小さな背中が揺れていた。
彼女の涙が、白い砂にいくつもいくつも、黒いシミを作っていく。
その震えは、いつまでも止まらなかった。
闘技場を出る頃には、夕陽が街の屋根を毒々しいほど赤く染め上げていた。
先導する王国軍の将校が、「領主殿の屋敷まで護送いたします」と機械的な声で告げてきた。「護送」。その言葉選びが、今の俺たちの立場を痛いほど正確に表している。もう、歓迎される客人じゃない。かといって手錠をかけられる罪人でもない。用済みのガラクタを倉庫に片付ける、そんな扱いだ。
ガランは、フラフラと歩くイリアの肩を抱きかかえるようにして進んでいた。彼自身の肩口もまだ血が滲んでいるのに、そんなものは擦り傷程度にしか思っていないようだった。
レオンは聖剣を鞘に収め、足元だけを見つめて歩いている。
エレーヌは杖を抱きしめるように胸に当て、一言も喋らなかった。
護送の兵士たちは、屋敷の門までついてきた。
門をくぐると、彼らは無言で一礼し、踵を返した。
俺が屋敷の正面を避け、裏口へ回ったのは、完全に無意識だった。
裏庭の植え込みの陰。外套をすっぽり被った小さな影が、石塀に寄りかかっていた。
足音に気づき、影が顔を上げる。
「……ゼン」
ノクトだ。
夕陽に照らされた少年の顔に、いつもの生意気な笑みはない。裏路地の死線をくぐり抜けてきた、ピリピリとした獣のような警戒心が張り付いていた。
「街中、変な噂で持ちきりだぜ」
ノクトが、俺の目を射抜くように見た。
「闘技場で騒ぎがあった、王子様が空から降ってきた、獣人の大戦士が身を挺した、ゼッドがしょっ引かれた。――噂の欠片は集めたけど、一番大事なところが分かんねえ。ゼン」
彼の手が、外套の胸元へ伸びる。預けた封書の感触を確かめる仕草だ。
「……勝ったのか、負けたのか」
夕陽の熱が、頬をジリジリと焼く。
俺は、冷たい石塀に背中を預けた。身体の奥底から、ドッと泥のような疲労が溢れ出してくる。張り詰めていた糸が、ノクトの言葉でプツンと切れた。
「……負けた」
自分でも驚くほど、掠れて情けない声だった。
「俺の盤面は、全部奪われた。ゼッドは捕まって、闘技場は潰れる。外から見れば俺たちの勝利だ。でも、やったのは俺じゃない。第一王子ゼクスだ。あいつが、一番高いところから全部の駒をひっくり返して、持っていきやがった」
ノクトは黙って、俺の顔を見つめている。
「助けられたのは、目の前の父娘ひと組だけだ。他の獣人たちは、王家の管理下に置かれて『処理』される。それが解放なのか、別の地獄の始まりなのかは分からない。――ガランも、勇者一行も、あいつに『王国の飾り』って吐き捨てられた」
ノクトの眉がピクリと跳ねた。
でも、彼は何も言わない。
「……俺なんて、ただの羽虫扱いだ」
自嘲気味に笑おうとして、頬の筋肉が引きつった。上手く笑えなかった。
短い沈黙。
風が吹き抜け、石塀に這う蔦がカサカサと鳴る。
ノクトが、外套の奥から封書を取り出した。
新星商会の赤い封蝋は、彼が一日はだ身離さず持っていたせいで、少しだけ角が丸くなっていた。
「これ、返すか?」
差し出された手紙を、俺はぼんやりと見下ろした。
受け取ろうと手を伸ばし――途中で、止めた。
「……持っておけ」
腹の底から、声を絞り出す。
「宛先は変える。ハロルド宛てじゃなくなる。――この手紙は、もうこの街じゃ意味がない。でも、もっとデカい盤面で、必ず使う時が来る」
ノクトは小さく頷き、封書を再び大事そうに外套の中へ隠した。
「もっとデカい盤面って、どこだよ」
俺は、夕陽に黒く浮かび上がる屋敷の尖塔を見上げた。
そして、そのずっと先、空の向こうを睨みつける。
「王都だ」
ノクトが、フーッと長く息を吐いた。
「……俺、王都なんて絶対行きたかねえ、って言ったよな」
「知ってる」
「善処するとも、言ったよな」
「知ってる」
ノクトはしばらく俺の顔をジッと見ていたけれど。
やがて、仕方ないというように小さく肩をすくめた。
「……まあいいや。ゼンが行くなら、俺も行く。リーシャとミレナには、とびきりの土産話、持って帰ろうぜ」
その言葉が、今日一日で一番、深く胸に刺さった。
俺は石塀から背中を離す。
そして、ノクトの細い肩を、ポンと一度だけ叩いた。
「ああ。――ちゃんと、持って帰る」
屋敷の窓に、ぽつり、ぽつりとオレンジ色の明かりが灯り始める。
夕陽は、西の山際の向こうへ、完全に沈んでいった。




