第35話 アリーナの歓声
パリィィィンッ――!
分厚い硝子が、真横から砲弾を喰らったように炸裂した。
破片が、光を受けて空中で虹色に散る。貴賓室の空気が一気に抜け、外の熱気と血の匂いが雪崩れ込んできた。
黒い巨影が一つ、弾丸のように落下していった。
ガランは片手に大盾を構え、落下の勢いをそのまま武器に変えて――アリーナの砂へ。
ドォン!
地響きが、石造りの館全体を揺らした。
砂地のアリーナで、父娘に迫っていた黒い魔獣たちの一匹が、真上から降ってきた大盾の下敷きになっていた。耳障りな悲鳴と、骨の砕ける鈍い音。
ガランは、その砕けた魔獣を踏み台にするように大盾を持ち上げ、身体を起こした。父娘を背後に庇う形で、砂の上に仁王立ちする。
彼の呼吸は、一つも乱れていなかった。
アリーナを取り囲む観客席が、一瞬、静まり返った。
硝子の砕けた音が、狂熱に沸いていた会場の耳を、一斉に貴賓用観覧室の方角へ向かせたのだ。
「う、うわあああああッ!!」
「なんだぁ!? 貴賓席から獣人がダイブしたぞォ!!」
「これが今夜の演出かァ! 最高じゃねえかァ!!」
爆発するような歓声が、四方八方から沸き起こった。
会場のそこここで指笛が鳴り響いた。
貴族席の婦人が、扇を口元に当てて身を乗り出し、目を血走らせている。子を膝に抱いた女が、胸の前で両手を叩いている。
彼らは、理解していた。いや、理解したつもりになっていた。
これは、領主ゼッドが用意した今夜の特別な余興。地下の殺し合いだけでは飽き足らない貴族たちへの、極上のサプライズ。獣人の大戦士が、勇者一行の一員として降臨する――最高の見世物だ、と。
俺は、砕けた硝子の縁に立ち、アリーナを見下ろしていた。
ゼッドは、椅子に座ったまま、動けずにいた。
両手で右手首を掴み、自分の手のひらを、呪いのようなものでも見るように、じっと見下ろしている。先ほどまでの愉悦も貴族の仮面も、そこには一片も残っていなかった。ただ、血の気を失った肥えた男が、自分の腕を信じられないという顔で凝視している。それだけだった。
テーブルの上では、砕けた記録水晶の破片の隣に、銀の鈴が転がっていた。
魔物の檻が開かれた以上、もはや鈴の意味はない。
俺はゼッドを一瞥してから、視線をアリーナへ戻した。
この男の観察は、戦いが終わってからでも遅くない。今は、見るべきものが他にある。
砂地に降りたガランの巨躯を、新たに放たれた黒い魔獣たちが取り囲み始めていた。
六つの赤い複眼が、鈍く光る。
「一人で格好をつけるな、ガラン!」
貴賓室の隅で、朱に染まった顔のまま硬直していたレオンが、不意に叫んだ。
椅子を蹴倒し、聖剣を抜き放ち、硝子の縁――ガランが砕いた風穴――へ一気に駆け寄る。
「レオン様、気をつけて――!」
イリアが声をかける前に、レオンの姿は虚空に躍り出ていた。
二階分の高さを、外套を翻しながら、蹴り降りる。その着地は、ガランの地響きとは対照的に猫の着地のごとく音もなかった。
抜き身の聖剣が、アリーナの砂の上で、陽光を鋭く弾いた。
「勇者様だ!!」
「本物の勇者様が降りてこられたぞォ!!」
会場の歓声が、先ほどより一段階、高く跳ね上がった。
レオンの美しい金の髪、鍛え上げられた体躯、聖剣の白光――観客の誰もが夢見る「勇者の降臨」そのものが、今、彼らの目の前にあった。
レオンの顔が、ほんの一瞬、苦く歪んだ。
聖剣の切っ先が、わずかに揺らぐ。
だが彼はすぐに歯を食いしばり、ガランの隣へ駆け寄った。
「後ろは頼む、ガラン。正面は俺がやる」
「承知」
ガランの短い肯定。
獣人の大戦士が大盾を構え、勇者が聖剣を正眼に持ち上げる。
父娘を背にした、堅牢な二枚の壁。
砂地の向こうで、黒い魔獣たちが唸り声を上げた。毛を逆立て、低く姿勢を沈める。
六つの影が、砂を蹴って、一斉に駆け出した。
最初の一匹が、赤い口を開いてレオンに飛びかかった。
レオンの聖剣が、閃いた。
「ブレードスラッシュ!!」
白い光の斬撃。ただ、それだけだった。
黒い巨体は、砂に落ちる前に、既に上下二つに分かれていた。
断面から、黒ずんだ血が噴き上がり、砂に吸い込まれていく。
「うぉおおおおッ!」
「一撃! 一撃で斬ったぞ!」
「流石勇者様だァ!」
歓声は、止まない。
むしろ、加速していく。
レオンの聖剣が、二匹目の魔獣の喉を貫く。三匹目が横から襲いかかる――それを、ガランの大盾が真横から打ち据え、地面に叩き伏せた。踏み潰すような盾の一撃で、魔獣の背骨が砕ける鈍い音。
砂地に、四匹の魔獣が転がった。
残りは、二匹。
「凍てつけ 氷束縛」
低く、澄んだ女の声が、上から落ちてきた。
俺の隣。砕けた硝子の縁から、エレーヌが杖を突き出していた。
いつの間にそこに立ったのか、蒼白だった彼女の頬に、薄く血の色が戻っていた。両目は細く鋭く、砂地の残り二匹の魔獣を射抜いている。
杖の先から、青白い冷気が螺旋を描いて降り注いだ。
砂地の二匹の魔獣が、走ったままの姿勢で、急速に凍てついていく。口から滴る唾液が凍り、毛並みが霜に覆われ、赤い複眼が白く濁っていく。ほんの二呼吸で、二匹は砂地の上に、巨大な氷の彫像と化した。
「レオン、ガラン。砕いていいわよ」
エレーヌの声が、上から冷たく降ってくる。
「了解!」
ガランの大盾が、氷の彫像の片方を真横から打ち砕いた。粉々になった氷と、凍った魔獣の肉片が、砂の上に散る。
レオンの聖剣が、もう片方を袈裟懸けに両断する。凍った断面が、陽光を受けて、宝石のように輝いた。
アリーナが、再び、一瞬静まり返った。
「うおおおおッ!!!」
これまでで最大の歓声が、闘技場の天井を突き抜けた。
貴族席の婦人たちが立ち上がり、労働者たちが空のジョッキを天井へ突き上げ、子供を肩車した父親が笑顔で拍手をしている。
「魔術師様も綺麗だァ!」
「なんて豪華な見世物だ!」
「これだけで金貨一枚の価値はある!」
その歓声の雨の中で――レオンの聖剣が、止まった。
三匹目を斬り終えた残心の姿勢のまま、彼の右腕が、砂地のほんの数センチ上で、静止していた。
聖剣から黒い血が滴り、その滴が砂を染めていく。
レオンの目は、もう魔獣を見ていなかった。
彼は、観客席を見ていた。
自分たちに向けられた、純粋な喝采を。
その喝采の、おぞましい正体を。
俺は、砕けた硝子の縁で、静かにそう思った。
歓声は、勇者一行の勝利を祝福していない。
この歓声は、父娘を助けた行為そのものを、今夜の特別な「演目」として消費している。
つまり、この街の観客にとって、救出は、殺戮と等しく、娯楽だった。
勝っても、負けても、救っても、殺しても、同じ歓声を浴びる。
――それが、この街の病の本質だった。
「大丈夫ですか! 動かないで、今、治します――!」
高い、懸命な声が、レオンを現実に引き戻した。
イリアが、いつの間にか砂地に降り立っていた。白い法衣の裾が砂で汚れるのも構わず、父娘の前に膝をつく。
「癒しの光」
柔らかな水色の光が、イリアの両手から広がり、獣人の男と少女を包み込んだ。
男の額を流れていた血が止まり、足枷の擦り傷が癒えていく。少女の青ざめた頬に、ゆっくりと血色が戻ってくる。
少女は、光の中で目を丸くして、そして――小さく、しゃくり上げた。声を殺して、父親の袖を掴みながら、ただ泣いていた。
ガランは、大盾を足元に置き、父娘のすぐ横に片膝をついた。
巨大な獣人の戦士が、自分より遥かに小さい、痩せた老人と泣きじゃくる少女を、静かに見下ろしている。
男が、顔を上げた。
瞼の奥の、濡れた琥珀色の瞳。
それは、ガランの琥珀色の瞳と、同じ色だった。
男が、乾いた唇を動かした。
「……助かった」
震える、掠れた声。
ガランは、短く、ゆっくりと頷いた。
それだけだった。
抱擁も、激昂も、涙も、なかった。
ただ、二人の獣人が、一つの視線を交わした。
砂地の歓声も観客の熱気も、その一瞬、彼ら二人だけの周囲から、消えていた。
イリアの頬を、透明な雫が一筋伝った。
彼女は光を広げ続けながら、自分の涙を拭おうともしなかった。
俺は、アリーナの光景から視線を引き剥がし、貴賓室の中へ戻った。
エレーヌが、砕けた硝子の縁から杖を下ろし、長い息を吐いていた。彼女は俺の顔を見なかった。アリーナの歓声を背中で受け止めたまま、小さく、掠れた声で呟いた。
「……この街の観客、一人残らず、気持ち悪いのよ」
俺は何も答えなかった。
答える言葉も、今すぐ彼女に差し出せるものも、俺は持っていなかった。
俺は、貴賓室の奥――ゼッドのいる椅子の方へ、ゆっくりと歩き出した。
ゼッドは、まだ動けずにいた。
両手で自分の右手首を掴んだまま、俯いている。貴石の指輪も絹のローブも、先ほどまでの豪奢さが嘘のように、今はただ肥えた一人の男を飾る重りでしかなかった。彼は時折、小さく、何かを呟いていた。
「……俺は、鳴らす気など」
「娘を、助けるつもり、だった」
「何故、俺の腕が」
呟きは、俺に向けられたものではなかった。自分自身に向けられた、必死の弁明だった。
俺は、右目に力を込めた。
こめかみの奥に、鋭い痛み。鼻の奥に、再び鉄の匂い。
だが、見ておかなければならなかった。
ゼッドの感情の表層には、もう【焦燥】も【愉悦】も、何もなかった。
相変わらず、あの【悪魔】が、ゼッドの恐怖を見下ろして、微かに震えていた。
俺は、ゼッドの目の前で足を止めた。
ゼッドが、ゆっくりと顔を上げた。
血の気のない、脂汗に濡れた、怯えた男の顔。
「……軍、師、殿」
擦れた声。
「私は、私は、本当に、あの娘を――」
俺は、短く遮った。
「分かっています」
その一言に、ゼッドの目が、大きく見開かれた。
俺は、砕けた記録水晶の破片を一瞥し、テーブルに転がったままの銀の鈴を一瞥し、そして、ゼッドの顔に視線を戻した。
アリーナの歓声が、まだ、遠く、鳴り止まなかった。
「領主殿」
低く、俺は告げた。
「もう、あなたに、打つ手は無い」
沈黙。
ゼッドの喉が、ごくり、と動いた。
彼が、何かを答えようと、乾いた唇を開いた。
――だが、その開かれた口から漏れ出た声は。
ゼッドのものでは、なかった。




