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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第2章 勇者一行

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第36話 バーサーカー

 ゼッドの喉からこぼれた声は、彼のものじゃなかった。

 低く、ひどく掠れていて、男か女か、老人か若者かすら分からない。井戸の底から響いてくるような、冷え切った音。


「貴様……この儂が見えていたな」


 ゼッドの顔が、ギギギ、と油の切れた機械みたいに俺へ向いた。

 墨汁を垂らしたように、白目が下から真っ黒に染まっていく。

 俺は咄嗟に一歩、後ろへ下がった。破れたガラスの冷たい縁に、背中がぶつかる。

 ゼッドの樽のような身体が、ブルッ、と痙攣した。

 それが、終わりの始まりだった。


 ボンッ!


 ゼッドの着ていた上等な絹のローブが、内側から弾け飛んだ。

 背骨がバキバキと音を立てて反り返り、肩幅が異常なサイズに膨れ上がる。首の筋肉が鋼みたいに盛り上がり、下顎が前へせり出した。グチャッという嫌な音とともに、口元から鋭い牙が次々と生え、唇を引き裂く。

 だるだるだった脂肪が黒光りする筋肉に変わり、腕が床に届くほど長く伸びた。指先が、カチカチと音を立てて黒い鉤爪に変異していく。


 そして――変異した全身から、黒いモヤが、ドス黒い蒸気みたいに噴き出し始めた。


 頭の中でけたたましい警報を鳴らす。

 この世界の酒場で聞いた噂話。勇者一行が酒を飲んでいる時、時々ポツリとこぼした「あの時」という言葉。


 バーサーカー。

 悪魔に魂を食われ、理性を失ったバケモノ。

 かつて勇者一行を、全滅ギリギリまで追い詰めた因縁の敵。


「ゼン!」


 エレーヌの悲鳴が、耳を劈いた。

 彼女が俺の外套を掴み、ガラスの縁から力任せに引き戻す――その直後だった。

 バーサーカーの黒い鉤爪が、俺の立っていた場所を無慈悲に抉り取った。

 大理石の床が粉々に砕け散り、破片が弾丸みたいに壁に突き刺さる。粉塵が舞う中、バケモノはもう一度地を蹴り、破れたガラスの大穴から、アリーナへ真っ逆さまに落ちていった。


 闘技場全体が、地鳴りのように揺れた。

 アリーナの砂の上に、黒いモヤを纏った異形が、ドスッと降り立った。

 さっきまで血のショーに熱狂していた観客たちが、水を打ったように静まり返る。

 子供を抱いた母親の顔から表情が消えた。

 貴族の男が、手に持っていたワイングラスを取り落とす。ガラスが割れる乾いた音が、静寂の空間にやけに大きく響いた。


「うわああああああッ!!」

「バ、バーサーカーだッ! 本物のバーサーカーだッ!!」

「逃げろ! 逃げるんだァッ!!」


 爆発したような、純度百パーセントの恐怖の悲鳴。

 観客席のあちこちで、さっきまで命を娯楽として消費していた連中が、我先にと出口へ殺到し始めた。

 人を踏みつける音、椅子が壊れる音、泣き叫ぶ子供の声――闘技場はあっという間に、地獄の逃走劇に変わった。

 俺は、破れたガラスの縁から下を覗き込んだ。


 レオンが、立ち尽くしている。

 聖剣を構えたまま、足が床に縫い付けられたように動かない。顔は真っ青で、瞳孔が点のようになっている。黒い魔獣をちぎっては投げていた戦士の肉体が、見えない呪縛で雁字搦めにされているみたいだ。


 エレーヌは、杖を落としていた。

 両手で顔を覆い、「嘘」「また」「あの時と」と、壊れたレコードみたいに呟き続けている。


 イリアは、父娘の少し手前で、完全に膝から崩れ落ちていた。

 手を組んで祈ろうとしているのに、手がガタガタ震えて組めない。組もうとしては解け、解けてはまた組もうとして……結局、そのまま動けなくなってしまった。


 三人が過去に何を経験したのか。俺は、断片的な噂話しか知らない。


(……前にバーサーカーと戦って、全滅しかけた。その時、イリアを育てたシスターが魔法を使って悪魔を消した。自分の命と、引き換えに)


 ガレリアに行く前、酒場で拾い集めた情報はそれだけだ。

 詳しいことは何も知らない。

 でも、目の前で完全に凍りついている三人を見れば、その傷がどれほど深いかなんて、痛いほどわかる。

 頭の中で、猛烈なスピードで算盤を弾く。打てる手はあるか。


 一、物理攻撃。剣も魔法も通じない。斬っても殴っても、悪魔の力ですぐに元通りになる。三人が身をもって証明している。


 二、エレーヌの最高火力、エクスプロージョン。これなら消し飛ばせる。でも、あれは前世で言うところの戦術核だ。こんな閉鎖空間で撃てば、バーサーカーも父娘も勇者一行も、俺たちごと全部蒸発する。使えない。


 三、シスターが命と引き換えに撃った、悪魔専用の魔法。

 ――使える人間が、ここにいない。


 俺の盤面に、打てる手は一つも残っていなかった。


 その時。

 アリーナの砂の上で、巨大な岩みたいな影が、ゆっくりと動いた。

 ガランだ。

 右手に大盾、左手に魔鉄の剣を構え、バーサーカーと父娘の間に、静かに歩み出ていく。急いでいない。焦ってもいない。ずっと前から決めていたことを、今、ただ実行しているような、そんな確かな足取りだった。


 レオンの横を通り過ぎても、エレーヌの横を通り過ぎても、彼は振り返らない。

 ただ、背中の父娘だけを、一度だけ短く振り返った。

 少女が、涙でぐしゃぐしゃの顔でガランを見上げている。

 ガランの喉から、地鳴りのような声が低く漏れた。


「……二度と、奪わせぬ」


 それだけだ。

 彼は前を向き、バケモノと正面から対峙した。

 俺は反射的に、ガランの頭上に焦点を合わせた。


 【覚悟】その横に【悔恨】。


 バーサーカーが、耳を塞ぎたくなるような咆哮を上げた。

 黒いモヤが蒸気機関車みたいに噴き出し、白い砂をドス黒く汚していく。バケモノの巨体が前傾姿勢になり、黒い鉤爪を振りかぶってガランへ突進した。

 ガランの大盾が、その鉤爪を真正面から受け止めた。


 ガァン――!


 金属が悲鳴を上げ、足元の砂が爆発したようにクレーターを作る。ガランの巨体が、ズザザッと二歩後退した。

 だが、倒れない。

 盾の裏から、魔鉄の剣が一閃する。

 バケモノの黒い腕に深く食い込み、ドス黒い血がブワッと噴き出した。

 しかし、血が砂に落ちる前に、傷口がジュワッと音を立てて塞がっていく。

 悪魔の復元力。

 でも、彼の足は、一歩も引かなかった。

 二発目の鉤爪が、上から叩きつけられる。盾で受け、剣で斬る。すぐ復元される。また受けて、斬る。また復元される。

 ガランの身体が、少しずつ、ジリジリと後ろへ押されていく。凄まじい衝撃で、アダマンタイト製の大盾を通して、死の鼓動を伝えてくる。

 バケモノは疲れない。治るたびに、むしろパワーが増しているように見える。

 父娘を守るガランの背中が、黒いモヤの中で小さく揺れている。

 少女の小さな手が、ガランの太い脚に、しがみついていた。


 俺は、ガラスの縁から身を乗り出して叫んだ。


「バーサーカー!」


 バケモノの動きは止まらない。


「お前が乗っ取ったゼッドの器は、もう壊れてる! 契約は破綻した! さっさと出ていけ! 別の器に移れば、お前も助かるはずだ!」


 悪魔は、何も答えない。

 ただ唸り声を上げて、攻撃を繰り返すだけ。

 前世で叩き込まれた交渉術も、契約の理屈も、利害の計算も――何一つ、このバケモノには届かない。

 俺の武器。

 ロジックと数字で街を立て直してきた、俺の武器が。

 今、目の前で、完全に無力化されている。

 この世界に来て初めて――俺の積み上げてきたロジックが、全く通用しない盤面に立たされていた。


 アリーナの砂の上で、ガランの膝がガクッと曲がった。

 バケモノの鉤爪が盾を掠め、ガランの肩を深く抉り取った。傷口から赤い血と、ドス黒い悪魔の毒が混ざって噴き出す。

 ガランが、ついに片膝を砂についた。

 巨体が、ズルッと沈み込む。


 それでも、彼は絶対に大盾を手放さなかった。

 地面に突き立てるようにして、父娘を背後に庇う姿勢だけは、何があっても崩さない。

 口の端から、赤い血がツツーッと垂れて砂に落ちる。

 ヒューッ、ヒューッ、と、壊れたポンプみたいな痛々しい呼吸音が聞こえてくる。


 少女が涙をボロボロこぼしながら、ガランを見上げて何かを言おうとしていた。

 ガランは振り返らない。

 ただ、大盾の裏の取っ手を、メリメリと音がするほど強く握り直した。


 バーサーカーが、トドメの一撃を振り上げる。

 黒いモヤが、辺り一面を覆い尽くす。

 凶悪な鉤爪が、空を切り裂いて――ガランの頭上へ、真っ直ぐに落ちていった。

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