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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第2章 王都グランゼル

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第34話 銀の鈴

 張り詰めた沈黙が、観覧室を重く覆い尽くしていた。


 ガラスの向こう、アリーナの砂の上。

 老獣人が、少女の小さな身体を庇うように背後に隠すのが見えた。

 二匹の棘だらけの魔獣が、喉の奥でグルグルと鳴りながら檻が空くのを待っている。

 ゼッドの太い指先で、銀の小さな鈴が弄ばれている。

 親指と人差し指に挟まれ、静かに揺れる鈴。まだ、鳴らない。


「さて、軍師殿」


 ゼッドの脂ぎった口ひげが、ゆったりと笑みの形に歪んだ。


「お返事を、伺いましょうか」


 俺は視線を上げ、彼の頭上を睨みつけた。


 【焦燥】【愉悦】【強欲】


 そして、そのさらに【■■】。

 右のこめかみの奥を、千枚通しで突かれたような痛みが走る。

 塗りつぶされたアイコンの正体は分からない。


 ゼッドは、完全に自分が勝ったと思い上がっている。

 表層の愉悦がそれを証明していた。


「条件を、聞かせていただけますか」


 低く、絞り出すように言った。

 レオンの肩に力が入る。

 エレーヌが青ざめた顔で、信じられないというように俺を見る。

 イリアは、組んだ両手を血が滲むほど強く握りしめた。


 ガランは動かない。ただ、その岩のような巨体が、ほんのわずかに――アリーナの方へ傾いていた。


「ふむ。話が早くて、大変結構」

 ゼッドは鈴を揺らしながら、太い指を三本立てる。


「一つ、そこの記録水晶を、あなたの手で砕くこと。二つ、その試算表を、あなたの手で暖炉に放り込むこと。三つ、相棒殿への呼び戻しをしてただきましょうか」


 爬虫類のように細められた目。


「その三つが済めば、私はこの鈴を鳴らしません。あの父娘は無事に檻へお戻しします。――そして皆様には、明日の朝、笑顔でこの街を発っていただく。簡単な取引でしょう?」


 レオンがギリッと奥歯を鳴らす音が聞こえた。

 エレーヌはうつむき、イリアは祈る手を震わせている。

 ガランが、重い口を開いた。


「……ゼン」

 腹の底から響くような、低い声。

「決めるのは、お前だ」


 短い言葉だった。

 でも、俺には痛いほど伝わった。彼は今、感情に任せて飛び出さないと誓ってくれたのだ。同胞が目の前で餌食になろうとしているのに、どれほどの忍耐を強いているのか。考えるだけで胸が軋む。


 俺はゆっくりと手を伸ばした。テーブルの真ん中で、まだ呼吸するように明滅している記録水晶へ。

 ガレリアで、都市長と交わした最初の契約の証。

 十年間のコンサル料契約を、石の中に刻み込んだ――ミレナが、用意してくれたあの水晶だ。

 指先が、冷たい水晶の表面に触れる。


(……すまない、ミレナ)


 心の中で、ルインに置いてきたミレナに謝った。

 俺はこの手で水晶を掴み上げ、そして躊躇いなく、床の大理石へ向かって力一杯叩きつけた。


 パキィンッ!


 鼓膜を刺すような破壊音が、部屋の空気を引き裂いた。

 銀色の光が細かい破片になって、絨毯の上に散らばる。一瞬だけ、昨夜の街の明かりみたいにチカッと光り――そして、永遠に消えた。


 イリアの小さな悲鳴が漏れる。

 レオンは拳をテーブルに押し付けたまま、顔を上げられないでいた。

 俺は無言のまま、テーブルの上の羊皮紙を手にした。


 昨夜から夜明けまで、血と泥の情報をかき集めて組み上げた俺の「盤面」。

 表の産業。裏の汚い収益。支出の矛盾。ロジックのすべてが、この一枚に叩き込まれている。

 それを折り畳み、椅子を立つ。部屋の隅の暖炉へ歩いていった。


 歓待用に燃やされている薪が、パチパチと静かな音を立てている。

 俺は羊皮紙を、その炎の中へすっと落とした。


 紙の端が茶色く縮れ、すぐにオレンジ色の炎が燃え上がる。

 インクの線が一瞬だけ黒く浮かび上がり――やがて、ただの灰になった。


「お見事」

 背後から、ゼッドの満足しきった声が響いた。

「実に見事な決断でした。軍師殿、あなたは本当に優秀だ。――さて、では約束通りに」


 衣擦れの音がして、ゼッドが立ち上がった気配がする。給仕に顎でしゃくるのがわかった。

「おい。アリーナの父娘を檻に戻せ。魔獣は引き揚げさせろ。今夜の余興は終いだ」


「はいっ」

 給仕が短く答え、部屋を出ようとした。


――その時だった。


 チリンッ。


 甲高く、細い音が響いた。

 部屋の空気が、ピシッと凍りついた。

 ゼッドの右手の上で。

 銀の鈴が、揺れていた。


「は?」

 ゼッドの口から、間抜けな声が漏れる。

 誰よりも彼自身が信じられないという顔で、自分の右手を呆然と見下ろしていた。


「馬鹿な……」

 声がかすれている。

 貴族の仮面も、ギャンブラーの余裕も、そこには微塵もない。

「俺は、俺は鈴を鳴らす気などない、のに――」

 ゼッドの右腕が、ガクガクと痙攣するように震え出した。親指と人差し指が、彼の意思を無視して、もう一度鈴を揺らす。


 チリンッ。


「腕が、腕が勝手にッ――!」

 ゼッドが、悲鳴を上げた。


 取り繕った口調が完全に剥がれ落ち、素の情けない男の声が響く。

 彼は左手で自分の右手首を必死に掴み上げた。まるで他人の腕を押さえつけるみたいに。両手が震え、拮抗し――それでも彼の右腕は、彼自身の意思を裏切って暴れ狂っていた。


 俺は反射的に、ゼッドの頭上を凝視した。

 【■■】が表示されるだけで、他のアイコンは表示されてない。

 アイコンの塗りつぶしが薄れていく。


 【悪魔】


 ゼッドの顔は、恐怖と混乱でぐしゃぐしゃに歪んでいる。

 それなのに、彼の内側では、何かがゲラゲラと笑っていた。

 背筋に太い氷の柱を突っ込まれたような寒気が走る。


「ゼン――!」

 ガランの鋭い声が、俺を現実に引き戻した。


 ガラスの向こう側。

 アリーナの反対側の扉が、地鳴りのような音を立てて開いた。

 二匹の魔獣の檻が開かれた。

 さらに――開かれた奥から、さっきの倍はあろうかという巨大な黒い影が四つ、次々と這い出してきた。

 逆立つ黒い毛並み。血走った赤い複眼。口からダラダラと垂れる粘着質な唾液。

 より凶暴な個体だ。鈴が鳴ったという事実だけが、ゼッドの意思とは関係なく、冷酷に執行されていく。


 少女が、声にならない悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。

 老人が孫を抱きかかえるように覆い被さり、錆びた短剣を構える。その手は骨と皮ばかりで、哀れなほど震えていた。

 魔獣たちに躊躇いはない。

 六つの影が砂を蹴り上げ、父娘めがけて一斉に襲いかかった。


「誰か――!」


 ゼッドが叫んだ。

 自分の右腕を必死に押えつけながら、部屋中をキョロキョロと見回し、誰にともなく叫ぶ。


「誰か、止めてくれ! あの娘は、あの娘だけは、殺す気は――!」


 視界の端で、ガランが動いた。

 立ち上がったんじゃない。大地そのものが隆起したような、凄まじい躍動。

 壁に立てかけていた巨大な大盾を、片手で軽々と掴み上げる。

 琥珀色の瞳が、静かに、でも業火のように燃え上がりながら、ガラスの向こうを睨みつけていた。


「ゼン」

 ガランの低い声が、部屋の空気を切り裂く。


「先ほどの御指示、まだ、有効か」

 俺は、短く頷いた。


「やれ、ガラン」


 次の瞬間。

 ガランの巨体が、ガラスめがけて砲弾のように突進した。

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