第31話 街の救世主
一週間前、この広場にこびりついていた重苦しい死の匂いは、もう欠片も残っていない。
吹き抜ける風が、赤や青の真新しい幟をばたばたと揺らす。
石畳には色鮮やかな花びらが散らかり、すれ違う人々の頬は熱気で上気していた。
「勇者様ばんざい! 我らが救世主ばんざい!」
鼓膜をビリビリと震わせる歓声。
そのど真ん中で、光の束を浴びるように勇者たちが手を振っている。
誰もが信じて疑わない、絵に描いたような英雄の姿。
俺は少し離れた日陰から、その眩しすぎる光景をただ眺めていた。
「ゼン殿。……本当に、よろしいのですか」
都市長の声に視線を向ける。
「『新星商会のゼン』の名前も、勇者様方と並んで表彰を……」
「要りませんよ」
手のひらを軽く向けて、言葉を遮る。
「表に立つのはあいつらの仕事だ。俺は口先で指示しただけですから」
光の当たる場所は、あのキラキラした連中に任せておけばいい。
それより大事なのは、目に見える名誉じゃない。
「契約書の第七条。覚えていますね」
「も、もちろんでございます。スライム精製工場の独占コンサルティング契約。向こう十年間、利益の三パーセントを新星商会へ」
都市長の喉仏が、ゴクリと上下に動いた。
俺は上着の裏ポケットから、小さな革のケースを取り出す。
中には、手のひらにすっぽり収まる水晶。
蓋を開けた瞬間、芯の奥で銀色の光が、まるで脈打つようにゆっくりと明滅を始めた。
「契約の要点を、この記録水晶に残します」
「記録水晶……ッ! 王都の法廷でしか使われぬという、あの……」
「ええ。相棒の錬金術師ミレナが、ルインを発つ前に俺の鞄に押し込んできた代物でしてね。『言葉だけで動く商談には、必ず証が要る』と、彼女が王立魔導院から取り寄せたんです。ケースから出せば、周囲の音を自動で拾う仕様ですよ」
言った、言わない。
そんな無駄な水掛け論を防ぐための、冷徹なまでの証拠。
俺と都市長が交互に契約内容を読み上げる。
水晶の芯が、声の波紋を吸い込むように深い青へと染まっていく。
最後の言葉を飲み込んだのを確認して、パタンとケースを閉じた。
光が途絶える。
都市長は深く頷き、契約書を収めた。
「獣人労働者の『正当な賃金契約』も、手筈通りに進めております」
周りを気にするように、都市長が声を潜める。
「全員を奴隷身分から解放し、鉱夫と同額で正式に雇用しました。……蓋を開けてみれば、彼らは夜目が利き、腕力もある。工場にはうってつけでしたな。おっしゃる通り、『差別は最も非合理な経済行為』でした」
俺は小さく顎を引くだけだ。
慈善事業をやったつもりはない。
安いからと奴隷を使い潰せば、教育のやり直しや反乱のリスクで、結局は高くつく。
単に、間違った帳簿の数字を書き直しただけだ。
ただ、この帳簿の動きは、いずれ王都のどこかで目障りな行為として響くだろう。
それも、計算済み。
◇
広場の熱気から逃れるように、果物屋の軒先へ戻る。
「ゼンさん」
ふわりと、春風みたいな柔らかい声が背中を掠めた。
振り返る。
イリアが、両手で小さな木箱を抱えて立っていた。
中には布で包まれた小瓶と、きっちり長さを揃えられた乾燥薬草の束。
「これ、旅の途中で使ってください。街の方々から頂いたんですが……」
彼女は箱から小瓶をそっと取り出し、両手で包み込むように差し出してきた。
「頭痛と吐き気を止める薬草茶です。ゼンさん、あの日……スライムの群れの前で、ひどく顔色が悪かったから」
心臓が、嫌な音を立てた。
あの夜、俺がハーブティーごと突き返して引いた、冷たい境界線。
馬車の中でも、食事の時でも、交わすのは丁寧な業務連絡だけだったはずだ。
なのに、見られていた。
スライムの酸の海を前に、膝の震えを必死に押し殺していた、あの無様な姿を。
「……気づいてたのか」
「ええ」
イリアの唇が、小さく弧を描く。
「あなたの言う通り、私はただ『雇われた聖職者』です。メンバーの体調管理は、業務の範囲内ですよね」
息が詰まる。
俺が投げつけた理屈が、そのままの形で、でもずっと優しい温度で返ってくる。
顔に貼り付けたコンサルタントの仮面に、ピキッとひびが入りそうだった。
俺が引いた線を、彼女は決して踏み越えない。
ただ、線の向こう側から、たしかに手を伸ばしてきている。
反射的に、彼女の真っ直ぐな瞳から視線を逸らした。
未成年相手にその気になってはいけない。
その気にさせてもいけない。
これはビジネスだ。
「……ありがとう。助かる」
乾いた喉から絞り出せたのは、たったそれだけの言葉。
小瓶を受け取る。
イリアはそれ以上踏み込んでこず、「お旅路のご無事を」とだけ言い残して、白銀の馬車へと歩き去っていった。
手の中のガラス瓶を、強く握り込む。
じわりとした確かな温もりが指先から伝わってきた。
◇
昼下がり。
俺たちを乗せた二台の馬車は、石畳を鳴らしてガレリアを出発した。
外を流れる景色は、行きとは少しだけ違っている。
先頭を進む勇者組の馬車。その御者台に座っているのは、汚れたボロ布を着た奴隷じゃない。
分厚い外套を羽織り、腰に真新しい水筒を下げた、正式雇用の獣人だった。
俺たちの荷馬車を引く獣人も同じだ。
たったそれだけの違いで、車輪の音がどこか軽く響く気がした。
「なあ、ゼン」
隣で寝ころんでいたノクトが、ぽつりとこぼす。
「あの獣人たち、いい顔してたな」
「ああ」
膝の上の手帳に目を落としたまま、短く返す。
「人件費が上がれば、目先の利益率は落ちる。だが三年後には、王国中の獣人が『ガレリアで働きたい』と殺到するだろうさ。人材の質が上がれば生産性も跳ね上がる。中長期で見れば、投資回収は十分可能だ」
「……やっぱ、お前って悪人だよな」
呆れたような鼻で笑う音。ノクトは視線を外へ戻した。
「なあ。都市長のジジイが言ってた『第一王子』って、どんな奴なんだ?」
不意に落ちてきた名前に、万年筆のペン先がピタリと止まる。
俺の手帳の隅にも、小さく書き留められている名前。
「ゼクス・ガイン・グランゼル。二十五歳。ユニークスキルの魔法を持ち、王立軍の実質的な最高指揮官だ」
「へえ、すげえじゃん」
「能力だけ見ればな」
手帳の紙面を、指先で軽く叩く。
「過去に妙な空白がある。九歳までは『心優しい王子』だったらしいが、十歳を境に突然冷徹になり、獣人迫害の法案を次々に主導した。人間、十歳でそこまで極端に性格が変わるものじゃない」
「なんかあったんだな」
「ああ、恐らく」
「……ゼクス殿下か」
向かいの席でずっと腕を組んでいたガランが、重々しく口を開いた。
「我ら獣人の間では、触れてはならぬ名として伝わっている。『王子の目に留まれば、翌朝には一族が消えている』とな」
馬車の中の空気が、急に何十度も冷え込んだような錯覚。
「……面倒な奴が王都で待ってるってわけか」
ノクトが肩をすくめる。
「ラスで小休止した後、王都でその『面倒な奴』と顔を合わせることになるだろうな」
遠ざかっていくガレリアの街並みを、窓越しに見つめる。
手帳には、今回の教訓がびっしりと書き連ねてある。
あの規格外の「歩く災害」たちも、盤面さえ整えれば俺の駒として機能した。
エレーヌの暴力的な火力も、レオンの剣技も、ガランの剛腕も。
すべてが、俺の言葉一つで動いた。
なら、王都にどんな「歪み」が巣食っていようと、必ず解けるはずだ。
歪んだ帳簿を正しく書き直す。
倒産寸前の街を黒字化する。
不合理な差別を、合理的な雇用に変える。
前世で培ったロジックは、この異世界でも十分に通用した。
やれる。
胸の奥底で、静かな、けれど確かな熱が燻っていた。
◇
夕刻。
薄暗くなり始めた街道の先に、ぼんやりと別の光が浮かび上がってきた。
「あれが、ラスの街か……」
ノクトが身を乗り出して窓に張り付く。
ガレリアとは比べ物にならない。
夜空を焦がすような、暴力的なまでの明るさ。
大通りには毒々しいほど色鮮やかな看板がひしめき合い、風に乗って、祭囃子のような太鼓の重低音がここまで響いてくる。
貴族たちの欲望を煮詰めたような歓楽街。
「お、派手な街じゃん。飯もうまそうだぜ」
「油断するな、ノクト」
俺は、そのギラギラした光の塊を睨みつけたまま口を開く。
「前にも言ったろ。綺麗な場所ほど、影は濃い」
街道に乱立する看板の金は、どこから出ている。
夜通し騒ぐための莫大なエネルギーは、一体誰から搾り取ったものだ。
でも、どんな歪みだろうと関係ない。
七日で死にゆく街を蘇らせた、この頭と口さえあれば。
数字と言葉で、必ず解を導き出せる。
膝の上の手帳を開き、新しい真っ白なページに万年筆を走らせた。
『ラス――歓楽街。歪みの種別:未調査。』
紙の上に残る、小さな黒いインクの染み。
馬車の揺れに合わせて、鞄の底で薬草茶の小瓶がコトリと小さな音を立てた。
ラスの街から、一際大きな歓声が夜風に乗って叩きつけられる。
その狂騒の足元に。
吐き気を催すような血の匂いと、冷たい鉄の鎖の音がへばりついていることに。
この時の俺は、まだ気づいていなかった。




