第25話 スカウト
昨夜の馬鹿騒ぎが嘘みたいに、朝の食堂には穏やかな光が差し込んでいた。
テーブルに広げた羊皮紙の帳簿。
そこに並ぶ数字を指先でなぞりながら、俺は頭の中のそろばんを弾いていた。
今回の防衛戦で吹き飛んだ「機会損失」。
そして、ここからいかに早く立ち直るかという「復興スケジュール」。
この世界じゃ、魔物に襲われるのは「避けられない天災」だ。
誰もが運命だと諦める。
ましてや、魔物の森から離れたこの辺境の街ルインなんて、防衛設備すらない。
本来なら、紙くずみたいに踏み潰されて終わっていたはずだ。
だけど、そうはさせなかった。
建物の倒壊エリアを絞り込み、物流の動脈だけは死守した。
結果として、ルインの街の復興ペースは他の被災都市とは比べ物にならないほど早い。
インクの滲んだ数字の羅列が、確かな利益の匂いを放っている。
このままいけば、俺の「新星商会」の拡大計画は、予定よりずっと早く進められるはずだ。
甘い皮算用に口元が緩みかけた、その時だった。
ぎしり、と。
食堂の入り口の床板が鳴った瞬間、首の後ろの産毛が逆立った。
空気が重い。物理的な圧力が、肺をぎゅっと押し潰してくるような感覚。
勇者レオン。
そして、魔導師エレーヌ。
「昨日はゆっくり話せなかったからな。改めて礼を言いに来た、ゼン殿」
白銀の鎧を脱いでいるというのに、レオンから漏れ出す覇気は隠しきれていない。
俺の向かいの席に、無遠慮に腰を下ろす。
その後ろには、さらりと銀髪を揺らす妖艶な美女――エレーヌの姿があった。
息を呑むほどの美貌とは裏腹に、その瞳はガラス玉のようにひどく冷たく、俺を見下ろしている。
「……何の用だ。昨日の戦闘の損害賠償なら、まだ計算の途中だぞ」
俺は努めて平坦な声を絞り出す。
「市街地戦闘での被害額は、あんたらのギルドに後で正式に請求させてもらうが」
牽制のつもりだった。
だが、レオンはポカンと口を開けた後――次の瞬間、火傷しそうなほど熱を帯びた目で、ぐっと身を乗り出してきた。
「我々を損得勘定で測るのは貴殿くらいだろうな」
呆れるどころか、ひどく嬉しそうだ。
「だが、それこそが今の我々に必要なものだ。ゼン、昨日の君の指揮……そして、あえて自らの身を呈してイリアを猛毒から庇った胆力。あれは平凡な策士にできることではない」
よく通る声が食堂に響き渡り、周囲の客たちが息を呑む気配がした。
「恐怖を完全に排し、最短で最適解を導き出し……あろうことか、我々勇者一行を完璧な駒として機能させてみせた」
レオンの言葉に熱がこもる。
「あの常軌を逸した戦術眼、そして状況の支配力。正直に言おう。我々には、君のその頭脳が必要だ」
彼の頭上に、ぽっかりとアイコンが浮かび上がる。
【心酔】。
胃の奥がチリッと痛んだ。
嘘でも打算でもない。この男は心の底から、俺を「常識外れの天才軍師」だと信じ込んでいる。
俺があの時、毒の盾になって前に出たのは、自己犠牲なんて高尚なものじゃない。
あの場でゲートを閉じられるイリアを失えば、作戦が失敗に終わり、俺の商会もろとも全てが「破産」する。
損失が確定して詰むくらいならと、盤面で一番手っ取り早く使える駒の「自分」を投げ込んだだけ。――そう自分の中で言い聞かせている。
「……悪いが、買い被りだ」
俺は視線をそらし、帳簿に目を落とした。
「俺はただ、生き残るためにハッタリをかまして、損得を並べ立てただけだ。それに、俺にはこの商会をデカくするという『本業』がある」
ペンを指先で回しながら、冷たく言い放つ。
「あんたらの命がけの旅に付き合う義理も、メリットもない」
「――メリット、か」
透き通るような冷たい声が、テーブルに落ちた。
ずっと無言だったエレーヌだ。
彼女の頭上で明滅していた【感情排除】の文字が、一瞬だけノイズのように揺らぎ、【打算】へと切り替わった。
彼女はローブの懐から、古い羊皮紙の束を取り出す。
バサリ。
俺が大事に計算していた帳簿の上に、それは無造作に広げられた。
「王家からの莫大な報酬は当然として……これを見て」
細い指先が、羊皮紙を叩く。
「私たちがいずれ向かう、魔王領の地図よ」
そこに描かれていたのは、大陸の北半分がべっとりと黒く塗りつぶされた、ひどく禍々しい図面だった。
「この深部には、現世ではお目にかかれない高純度の魔導素材や、古代の失われた技術が眠っている」
エレーヌの言葉が、耳の奥を滑っていく。
「あなたの言う『ゴミを金に変える翻訳』とやらも、そこなら国家予算レベルで行えるはずよ」
破格の条件だ。
本来なら、コンサルタントとして飛びつかない手はない。
だが。
俺の視線は、彼女が指し示した美味しい「資源の分布図」なんかには向かっていなかった。
端っこ。
魔王領の勢力圏を示すシンボルとして描かれた、小さな「魔王軍の旗」のデザイン。
三日月を背景に、一本の剣が突き立てられている。
ただそれだけの、シンプルな紋章。
ドクン、と。
胸の奥で、心臓がひどく嫌な音を立てた。
指先から急激に血の気が引いていくのがわかる。
数字とロジックだけを追いかけて、吐き気を堪えながら生きていた現実世界。
その裏側で、深夜の暗い部屋のモニター越しだけが、俺の唯一の居場所だった。
あのネットゲームの中で。
俺と、イルさんが一緒に立ち上げたギルドのマーク。
それと、完全に一致している。
偶然?
いや、あり得ない。
何千時間も、画面の中で見つめ続けてきたんだ。俺たちの「居場所」の象徴を、見間違えるわけがない。
もし。
もし、あの魔王軍の背後にイルさんがいるんだとしたら。
ふいに、脳裏をよぎるものがあった。
このふざけた世界に俺を放り込んだ時、あの女神がすがりつくように残した言葉。
『――あの方を、探してください』
ただの厄介なチュートリアルだと、記憶の隅に蹴り飛ばしていた。
でも、もし。
女神の言う「あの方」が、イルさんのことだとしたら?
頭の片隅で警鐘が鳴る。
プロフェッショナルとしての「冷徹な打算」のシステムに、「未練」という名の致命的なバグが侵食していく感覚。
自分のたった一つの命というリソースを。
こんな正体不明のフラグを回収するためだけに、全ベットするのか?
「……一旦、考えさせてくれ」
声が震えなかったのは、奇跡だったかもしれない。
「俺一人で、決められることじゃない」
じわっと熱くなりかけた視界を誤魔化すように、俺はマグカップを手に取った。
すっかり冷めきったコーヒーを、泥水みたいに喉の奥へ流し込む。
俺の意志なんて関係なく。
歯車はもう、嫌な音を立てて回り始めていた。




