第23話 死の淵で見た光景
空き地の地面が、胃袋の底から揺さぶられるように鳴動した。
現れたのは、通常の三倍はあろうかというフロッグマン・ロード。
パンパンに膨れ上がった腹の皮下で、濃緑色の有毒ガスが蠢いている一歩踏み出すたび、周囲の空気が泥のように重く淀んだ。
「レオン、奴を足止めしろ! イリアは魔法陣の展開に集中だ!」
俺の怒鳴り声に反応し、白銀の鎧が前線へと弾け飛ぶ。
イリアは石畳に膝をつき、祈るように光の文字を空中に編み上げ始めた焦りからか、その額を大粒の汗が伝い落ちる。
丸太のような腕が振り下ろされる。
レオンが大剣を斜めに構えて軌道を逸らすが、殺人的な質量を逃がしきれず、足元の石畳が爆ぜて砕け散った。
「くそっ、硬い!」
刃が異形の皮膚を裂くが、分厚い脂肪と筋肉の壁に阻まれ、致命傷には程遠い。
普段のあいつなら、ここでためらいなく魔力の大技『ブレードスラッシュ』をぶっ放し、一撃で両断している場面だ。
だが、俺が突きつけた「市街地での使用禁止」という絶対の命令が、手足を縛る強烈な枷になっていた。
ここで光の刃を振り回せば、周囲の街が破壊されるだけでなく、ロードの腹に詰まったガスが吹き出す恐れがある。
必殺技という最強のカードを封じられた勇者は、純粋な剣技とステップワークだけで、圧倒的な力を持つ化け物と死闘を演じていた。
「イリア、まだか!」
「あと少し! あと少しで術式が繋がります!」
叫ぶ彼女の手元で、魔法陣がまばゆい光を放ち始めた。
まずい。
ロードの濁った眼球が、その魔力の高まりに反応した。
レオンの剣撃をうるさい羽虫のように無視し、苛立ちを露わにした巨体が渾身の力で腕を振り抜いた。
ガガァンッ!
ひどく嫌な衝撃音。白銀の鎧が鞠のように空高く弾き飛ばされ、瓦礫の中へと叩きつけられた。
「レオン様!」
悲鳴を上げるイリア。
ロードの白く濁った巨大な眼球が、無防備な少女を真っ直ぐに捉えた。
膨れ上がる、異様な喉の奥。
物理攻撃じゃない。あれは、体内から高濃度の毒液を吐き出す前兆だ。
倒れたままのレオンは、間に合わない。
イリアがここで回避行動を取れば、展開しかけた魔法陣は崩壊し、ゲートを閉じる手段は永遠に失われる。
脳内で、コンサルタントとしての超高速の計算式が回る。
イリアが死ねば街の救済は失敗し、俺たちも全滅する。
なら、ここで一番戦闘力の低い俺が肉の盾になるのが、最も合理的な判断だ。
必死に、震える足へそんな理屈を並べ立てて誤魔化す。
違う。
本当は、そんな立派な計算じゃない。
ただ、目の前で女の子が死ぬのを、黙って見ていられなかっただけだ。
地を蹴った。
イリアを覆い隠すように、その前へ飛び出す。
直後。
ロードの口から、致死性の毒液が散弾のように放たれた。
「えっ」
イリアの呆然とした声。
それと同時に、俺の背中と肩を、真っ赤に焼けた鉄柱を押し当てられたような凄まじい激痛が貫いた。
「ぐあぁぁぁっ!」
ジュッ、と皮膚が溶け、肉が焼ける音。
前世でも今世でも経験したことのない、狂いそうなほどの痛覚が脳髄を真っ白に焼き切っていく。
俺はイリアを庇い、覆いかぶさったまま地面へ崩れ落ちた。
「あ、あなた……!? どうして……っ!!」
名前も知らない俺に庇われ、イリアが悲鳴を上げる魔法陣から手を離し、俺の背中に触れようとしてきた。
「触るな! 手が溶けるぞ!」
口の中に広がる痛みを噛み殺し、俺は必死に彼女を怒鳴りつけた。
「術式を完成させろ! 今ゲートを閉じなければ、俺の行為が完全な無駄になる!」
ビジネスライクに歪めた、血まみれの命令。
それに弾かれたように、イリアは大粒の涙をポロポロとこぼしながら、再び魔法陣へと向き直った。
視界の端。
立ち上がったレオンが、怒りの咆哮とともにロードへ突っ込んでいくのが見えた。
よし。盤面は、守り抜いた。
急激に、俺の意識が暗い水底へと沈み始めていく。
痛みが遠のく。指先の感覚が溶けて消える。
自分が死の淵にいることが、理屈ではなく生物としての本能で理解できた。
また、か。
前世でも、こんな風に唐突に終わりが来た。
雨の夜。耳を劈くブレーキ音。
冷たいアスファルトの上で、一人孤独に死んでいった。
あの時は「死んだ後に自分の体が誰かの役に立てばいい」なんて、臓器提供のカードにすがって、惨めな人生を慰めることしかできなかった。
でも、今はほんの少しだけ違う。
自分の意志で、守りたいもののために、体を張れた。
薄れゆく意識の、泥のように重いまぶたの裏。
そこに浮かんできたのは、商会の帳簿でも、ラド商会への憎しみでもなかった。
前向きで、強がりなリーシャの横顔。
眼鏡の奥で、職人の意地を燃やしていたミレナ。
そして、屋根の上で命がけの合図を送ってくれたノクト。
俺は、あいつらにちゃんと言葉を伝えていただろうか。
コンサルタントの理屈で武装するばかりで、「ありがとう」の一言すら、まともに言えていなかった気がする。
また、何も言えなかったな。
胸の奥にじわりと滲む、どうしようもない後悔とともに。
俺の意識は、完全に真っ暗な闇へと落ちていった。




