第22話 最善のルート
裏路地には、胃液がせり上がってくるような異臭が淀んでいた 。
濃密な死の気配と、フロッグマンが撒き散らす有毒なガスだ 。
瓦礫の陰に身を潜め、俺と、勇者レオン、聖職者のイリアは、魔物が湧き出すゲートを目指す 。
しかし、歩き出してすぐに足が止まった。
「なぜ隠れて進む必要がある。この先の大通りを真っ直ぐ突き抜けるのが最短距離だ!」
苛立ちを隠そうともせず、レオンが白銀の鎧をガシャンと鳴らして大通りへ出ようとする 。
俺は背後から手を伸ばし、その肩口の冷たい金属をガシッと掴んだ 。
「待て。そっちには敵の群れが密集している。こっちの路地だ」
「群れがいるなら斬り伏せればいいだろう! 迂回などしていては――」
「声が大きい。落ち着け、勇者」
喉の奥を冷たく引き締め、低い声で押さえつける 。
そして、立て続けに畳みかける。
「あんたは『戦闘』を、無条件に正しいと勘違いしている」
「いいか、今回の勝利条件は魔物を倒すことじゃない。敵と一切遭遇せず、無傷で聖職者をゲートまで送り届けることだ」
「市街地で剣を振り回せば、街が壊れるリスクが跳ね上がる。さっきも言った通り、あんたの技は街中では劇薬すぎるんだ 」
「敵との交戦は『不要なコスト』だ。理解したか?」
真っ向から常識をへし折られ、レオンは忌々しげに舌打ちをした 。だが、広場での論破が効いているのか、反論は呑み込み、路地の暗がりへと身を沈めた 。
俺が絶対の自信を持って迂回ルートを選べるのには、理由があった 。
見上げた先。三階建ての廃屋の屋根から、小さな影がひょっこりと顔を出している 。
ノクトだ 。
音もなく屋根を伝い、眼下の路地を俯瞰しながら、素早い手信号を送ってくる 。
『正面の交差点、三匹。右へ曲がれ』
小さく頷き、俺は合図を足の動きに変換する 。
「止まれ。三秒後に右の路地を抜ける。走るぞ」
息を殺して角を曲がる。
その瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。
別の路地から、はぐれた二体のフロッグマンがぬるりと姿を現した 。
距離はわずか数メートル。完全に鉢合わせた。逃げる隙間なんてない 。
「チッ!」
レオンの手が反射的に剣の柄に伸びる 。
やめろ。ここで剣を抜けば、金属音と血の匂いで群れが殺到する。計画が終わる 。
その時だった。
頭上から放物線を描いて飛んできた小さな石ころが、フロッグマンの背後にある雨戸をコツンッと鳴らした 。
即座に振り向く魔物たち 。俺たちに気づくほんのコンマ数秒前、ぐるりと首を回し、音の鳴った方角へ一目散に駆け出していく 。
屋根の上を見上げると、ノクトが「早く行け」と顎をしゃくっていた 。
息を止め、無言で危険地帯を駆け抜ける 。
路地の奥に辿り着いた時、レオンは剣の柄から手を離し、信じられないものを見るような目で俺を見つめていた 。
彼の顔には、明確な驚愕が張り付いていた 。
一度も剣を抜かず、血の一滴も流さずに、敵の包囲網を抜けたのだ 。力ずくの正面突破しか知らなかった勇者が、情報を使った戦い方を初めて目の当たりにした瞬間だった 。
◇
ゲートが目視できる距離まで近づき、崩れかけた商店の裏手で足を止める 。
額から汗がボタボタと滴り落ちていた 。
ミレナの工房から広場へ、そしてまた工房の方向へ戻る道中 。たかだか往復二キロちょっとの距離だ 。なのに、極度の緊張と運動不足な体には、肺が破れそうなほど過酷だった 。
膝に手をつき、必死に酸素を吸い込む 。
そんな俺の背中に、ずっと無言だったイリアの声が落ちてきた。
「なぜ、あなたはここまで過酷な真似を?」
漆黒の髪を揺らし、深い茶色の瞳が俺を真っ直ぐに射抜いている 。
「あなたには、私たちのような力がない。一歩間違えれば死んでいたかもしれない。それなのに、どうして?」
言葉に、詰まった 。
なぜ。
この街にはリーシャがいる。不器用なミレナがいる。さっき命がけで石を投げてくれたノクトがいる 。
俺の今の居場所。それを壊されたくなかった。ただ、それだけだ 。
だけど、そんな青臭い本音を初対面の相手にひけらかす 趣味はない。
ゴクンと唾を一飲みし、ひねくれたコンサルタントの仮面を被って鼻で笑う 。
「勘違いするな。これはただの『仕事』だ」
「仕事?」
「ああ。俺のクライアントが危機に瀕している。なら、契約を果たすためにやる。それだけのことだ」
イリアは目を丸くし、やがて何かを察したようにふっと口元を綻ばせた 。
「あなたは、不思議な人ですね」
少しだけ間を置き、彼女は手にした杖をそっと握り直す 。
「私たちが戦う理由は、もっと単純なんです。魔王が命じれば、魔族も魔物も悪魔も動く。だから魔王を倒せば、世界の脅威は消える。……勇者様は、ずっとそう信じています」
疑いのない、綺麗な確信だった 。
俺は何も返さなかった 。
五日前に見た、エグバートの【空白】のアイコン。そこへ染み込んでいった、ひどく不自然なノイズが脳裏をよぎる 。
あの男を狂わせた声は、本当に『魔王』の命令だったのか 。
その直後、路地を抜けた先。ぽっかりと空いた空き地が視界に広がった 。
かつて商会連合の会長が立っていた場所 。今はただ、青白く脈打つ空間の歪み――『ゲート』だけが、薄気味悪く揺らめいている 。
「着いたぞ。イリア、あんたの仕事の番だ。あのゲートの息の根を止めてくれ」
「はい! すぐに魔法陣の展開に入ります!」
イリアが杖を強く握り、空き地の中央へと駆け出す 。
光る文字が宙に浮かび、魔法陣の展開が始まった 。
これで終わりだ。盤面は完全に俺のコントロール下にある 。
そう確信し、次の指示を出そうと屋根の上を見上げた、その時だった 。
視線の先。
ノクトが、顔を真っ青にさせながら両腕を激しく交差させていた 。
『ヤバい、ヤバい、逃げろ!』
狂ったような手信号 。
直後。俺たちが抜けてきた路地とは反対側、広い大通りの方から、ズシン、ズシンと胃袋を揺らすような地鳴りが響いてきた 。
建物の陰から、ぬっと姿を現した巨大な影 。周囲の空気を圧迫するほどの質量 。
広場の近くにいたはずの、あの巨大個体 。
フロッグマン・ロードが、街を徘徊した果てに、最悪のタイミングでこの空き地へ辿り着いたんだ 。
通常の三倍はある巨体。パンパンに膨れ上がった、爆発性の有毒ガス 。
完璧に組み上げたはずの俺の計算式が、音を立てて崩れ去った瞬間だった 。




