第19話 防衛線のコンサルタント
夜明け前のルイン中央広場。
底冷えする空気を引き裂くように、大通りの奥から嫌な音が這い上がってくる。
ペタッ。ペタッ。
湿り気を帯びた、ひどく重たい足音。
本来なら市場の準備で活気づくはずの石畳を、異形の群れがじわじわと塗り潰していく。
「な、なんだよありゃ……。デカいカエル、か……?」
荷台を降ろしかけていた商人たちが、大通りの暗がりから溢れ出す影を見て次々と尻餅をついた。
パニックの波が広場を飲み込もうとした、その時。
「下がれ! ルイン警備隊だ!」
ノクトが呼んできた数名の警備隊員が、槍を構えて飛び込んできた。
迷いはない。彼らは足を止めることなく、ぬめる皮膚を持った魔物の群れへと真っ直ぐに突っ込んでいった。
「怪物め、ここを通すと思――」
隊員の叫びは、最悪の形で裏返った。
「ぎあああああッ!?」
先頭のフロッグマンが吐き出した、緑色の粘液。
それをまともに浴びた隊員の鎧が、盾が、そして肉体が、ジュッという不快な音と共に白煙を上げる。
石畳すらドロドロに溶かす、強酸の毒。
槍を振るう暇なんて、なかった。
一瞬にして、前線が崩れ落ちる。
「ヒッ、化け物だ! 逃げろ!」
悲鳴が連鎖し、商人たちが蜘蛛の子を散らすように背を向け始める。
ダメだ。ここで陣形が崩れれば、全滅する。
四方を石造りの建物に囲まれたこの広場は、延焼に強く、退避路も確保しやすい。防衛には最適な立地のはずだった。
でも、腐食液なんて聞いてない。盤面の前提条件が根底から狂っている。
脳内で弾き出した生存率が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
俺は乾いた喉を無理やり開き、腹の底から声を張り上げた。
「逃げるな! 今すぐ屋台や馬車を出せ! 広場への入り口を塞いでバリケードにするんだ!」
だが、パニックに陥った人間に正論は響かない。
なら、どうする。
理屈じゃない。人間の、もっと生々しい『欲』を突くんだ。
「そのまま逃げれば、店も在庫も全部食い荒らされて終わりだぞ! 自分の資産を守りたければ、今すぐ荷車を横に倒せ!!」
「お、俺の在庫が……!? ふざけるな、誰が食わせるか!」
血相を変えた商人たちが、我に返ったように屋台や馬車へしがみつく。
「リーシャ、住民の指揮を頼む! あとで必ず報いるって叫び続けろ」
「分かったわ! みんな、屋台を寄せて! 壁を作るのよ!」
凛とした、芯のある声が夜明けの空気を震わせた。
かつてラド商会に怯えていた気弱な女は、もういない。今の彼女は、間違いなく一人の『商人』だった。
リーシャの指揮で、即席の防衛線が組み上がっていく。
俺はその隙に、隣で唇を噛み締めていたミレナの肩を掴んだ。
「ミレナ、あいつらを足止めする方法はないか!」
「魔物避けの煙幕なら、調合できる。でも、硫黄と薬草がないと……」
「薬屋へ行くぞ!」
広場の角にある薬屋へ走り、戸板を叩き割る勢いで拳を叩きつけた。
「硫黄と薬草を全部出せ! 拒否すれば一時間後にこの店はあのカエルの胃袋の中だ。今出せば、俺たちが市場の利権を調整してでも倍にして返す!」
店主の頭上を『視る』。
【恐怖】と【欲】のアイコンが激しく明滅し、やがて彼は狂ったように奥の棚から材料を放り出し始めた。
同時に、こめかみの奥を鋭い針で刺されたような激痛が走った。
短時間に多人数の感情を連続で読み取った、スキルの代償。
視界がぐらりと揺れるが、奥歯を噛み締めて耐える。構っている暇はない。
◇
「ゼン、数が多すぎる! ヤツら、もうすぐバリケードにぶつかるぞ!」
露店の屋根によじ登ったノクトが、喉を裂かんばかりの声を落としてくる。
ミレナが即席で作り上げた煙幕がバリケードを覆い、酸の匂いと混ざり合って息苦しい。
魔物たちは煙を嫌がって動きを鈍らせているが、材料の尽きる時間はもう目前に迫っていた。
限界か。
そう思った、その時だった。
「あっち行け、化け物!!」
恐怖で理性を飛ばした住民の一人が、手に持っていた松明を群れのど真ん中へ投げつけた。
凄まじい閃光が網膜を焼き、鼓膜をぶち破るような爆音が弾けた。
投げられた松明がフロッグマンの腹に当たった瞬間、パンパンに膨らんだ肉体が起爆したのだ。
体内の油が引火し、周囲の個体を巻き込んで連鎖爆発を引き起こす。
熱風が広場をなめ回し、俺たちが築き上げたバリケードの一部が炎に包まれた。
「嘘だろ。あいつら、歩く爆弾かよ」
一匹を焼けば、群れ全体が誘爆する。
この街は今、丸ごと巨大な火薬庫の上に立たされているのと同じだ。
「火を使うな! 全員、松明を消せ!!」
怒鳴り声は、燃え盛る炎の音にかき消された。
煙幕が薄れ、バリケードの隙間から、ぬめる緑の腕が次々と伸びてくる。
その時、屋根の上のノクトが短く息を呑んだ。
「……ゼン、奥だ。一匹、"濃度"が違う。俺の魔族の感覚が、警報を鳴らしてやがる」
ノクトの視線を追う。
群れの最奥。
そこだけ空気が淀んでいるように見えた。
通常の三倍はあろうかという、悍ましい肉の塊。
『フロッグマン・ロード』。
ゆらりと巨体を揺らすたび、腹の中に溜め込んだ膨大なガスが不気味な音を立てている。
ここまでか。
脳内で、絶望的な試算が走る。
煙幕の残量、ロードの爆発性体液、連鎖爆発の想定範囲。
どう計算しても、マイナスにしかならない。
俺たちの手札じゃ、もうこの規模の損失はカバーしきれない。
市場を捨てて、命だけを拾う。
それ以外の選択肢は、完全に潰れた。
ギリッと拳を握り込み、喉の奥から声を絞り出す。
「全員、撤退だ! 市場を放棄して、正門から街道へ逃げろ! 荷物は捨て――」
指示を飛ばそうとした、まさにその瞬間だった。
背後の正門が、勢いよく叩き開けられた。
朝日と共に、目を焼くような眩い白銀の光が広場へなだれ込んでくる。
なんだ?
逆光の中。
漂う土埃と煙の向こうに、四つの濃い影が浮かび上がっていた。




