第18話 深淵への門
ラド商会のトップ、エグバートが姿を消して五日。
すり減った靴底が、また一つ石畳を硬く叩いた。
朝から晩まで路地裏の泥を這いずり回り、あちこちで聞いて回る。そんな徒労の五日間。
「見つからないな」
ノクトの横顔には、いつもの飄々とした空気が欠け落ちていた。
声の端が、ささくれ立っている。
「浮浪者のねぐらまでひっくり返したんだ。誰も見てないなんて、まるで最初から煙だったみたいじゃないか」
「お疲れ。今日はもう休もう」
俺は手元の帳簿から目を離さずに返した。
店の奥からはミレナが木材をカンカンと叩く小気味良い音が響き、厨房の方からはリーシャが煮込むスープの匂いがふわりと流れてくる。
いつもと変わらない、穏やかな夜。
だけど。
俺の胃の底には、冷たい鉛のような違和感がどろりと沈み込んでいた。
あの日、エグバートが残していった不自然な『空白』。
追い詰められた経営者が最後に切るカード。
再起か、破滅か。
いや、一番恐ろしいのは――道連れだ。
もし、藁にもすがる思いの彼に、甘い毒を囁く存在がいたとしたら。
この静寂は、盤面を根底からひっくり返すための、最悪の仕込みの時間。
◇
「ゼン、起きて!!」
乱暴に肩を揺さぶられ、俺は弾かれたように身を起こした。
薄暗い部屋。
ノクトの顔が、張り詰めた弓の弦のように強張っている。
「鳥が、鳴いてない」
その一言で、背筋にぞわりと冷水がぶちまけられた。
耳を澄ます。
……無音。
夜明け前なら必ず聞こえるはずの、虫の羽音も、風が葉を揺らす音すらない。
街全体が、息を殺している。
「来る……っ。魔族の感覚だ。すぐそこ、隣の空き地から何か来る!」
ベッドから跳ね起き、上着を引っ掴んで表へ飛び出した。
頬を叩く夜気が、やけに冷たい。
隣の空き地。
そこだけが、ゲームのバグみたいにぐにゃりと歪んでいた。
青白く、胃液がせり上がってくるような禍々しい光。
それが、ドク、ドクと心臓のように脈打っている。
光の中心。
そこに立っていたのは――エグバートだった。
両手で赤ん坊のように抱え込んでいるのは、どす黒い石。
石の表面の青白い文字が拍動を繰り返し、周囲の空気を歪ませている。
「新星商会を……あの小娘の店を、叩き潰す……出でよ、フロッグマン!」
喉の奥から絞り出したような、掠れた呪詛。
直後、虚空がガラスのようにピキリとひび割れた。
ぬらり。
嫌悪感をぐつぐつと煮詰めたような肉の塊が、裂け目から這い出してくる。
反射的に、俺はそいつの頭上を『視』ていた。
……何もない。
感情がない、というレベルじゃない。
俺のスキルが読み取るべき『心』という概念が、そもそもあいつらには備わっていない。
指先から急速に熱が奪われていく。
俺の唯一の武器である『交渉』も『感情の可視化』も、こいつには一切届かない。
人とカエルを混ぜ合わせた生き物が一体。
それだけでも、俺たちの小さな店を更地にするには十分すぎる。
だが、嫌な汗が背中をどっと伝い落ちた。
空間の裂け目が、閉じるどころか、さらにメリメリと押し広げられていく。
底知れぬ深淵へと続く門。
そこから、二体、三体と、名状しがたい絶望が這い出してくる。
「違う! 一体だ! 私は一体と契約したはずだぞ!」
エグバートの顔面が、ぐしゃりと崩れた。
必死に黒い石を押さえ込もうとする指の隙間から、ジリジリと空間を焼くような異音が漏れる。
「閉じろ! なぜ閉じない……! 話が違う!」
叫び声は、どこまでも滑稽で、ひどく哀れだった。
「納品数は一のはずだ、契約違反だぞ……! 騙したな、悪魔ぁッ!!」
黒く焼け焦げていく彼の頭上に、最後のアイコンが浮かび上がった。
【契約】
三十年。
人生のすべてを懸けて商会を築き上げた男が、死の淵で縋ったのは、恐怖でも後悔でもない。
商人の骨の髄まで染み込んだ、たった一つの作法だった。
それが、エグバートという男の『墓標』だ。
しかし、そんなビジネスの理屈なんて、連中には欠片も通じない。
商人の悲痛な抗議は、カエルに似た異形の無機質な咆哮に、あっさりと踏み躙られた。
ボワッ、と。
黒い石が限界まで赤熱し、エグバートの腕がジュージューと嫌な音を立てて焼けていく。
召喚? 違う。
最初から、この男はただの『鍵』。
奴らが現世に溢れ出すための、使い捨ての門に過ぎなかったんだ。
「ひっ……!」
「きゃああああっ!」
遅れて飛び出してきたリーシャとミレナが、凄惨な光景に息を呑み、悲鳴を上げる。
溢れ出す、圧倒的で理不尽な暴力の波。
コスト管理も、リスクマネジメントも、ここでは紙屑以下の価値しかない。
「逃げろ!!」
喉が裂けるかと思うほどの声で吠えた。
「中央広場へ走れ! 何があっても振り返るな、命が最優先だ!」
足がすくんで動けない彼女たちの背中を叩き、強引に前へ突き飛ばす。
エグバートを助ける?
無理だ。俺にそんな力はない。それに、そんな義理もない。
背後で。
空気を引き裂くような断末魔が響いた。
群がったフロッグマンの山の下から、バキバキと、太い生木をへし折るようなひどく不快な音が続く。
一瞬だけ、振り返ってしまった。
視界に映ったのは、広がる血だまりと、ズタズタに引き裂かれた高級服の切れ端だけ。
さっきまでそこでわめいていた人間の痕跡は、もう、どこにもなかった。
狂気に染まりゆく街の底へ向かって、俺たちはただがむしゃらに駆け出す。
盤面は、最悪。
おれのの論理なんて一切通用しない。
純粋な悪意のゲームが、今、始まったんだ。




