第17話 サンクコスト
新星商会の屋台が連日「七星香」を求める客の熱狂に包まれる中、俺の仕掛けたもう一つの『罠』が、静かにラド商会の首に巻き付こうとしていた。
「ゼン、読み通りだぜ」
夜の宿の食堂に滑り込んできたノクトが、口の端を歪めて笑った。
「俺が酒場で『新星商会が南方胡椒を必死に集めてる』って情報をこぼしたら、エグバートの野郎、完全に食いついた。街中の胡椒を倍の値段で買い占めてる。足りない資金は、なんと闇社会の高利貸しから引っ張ってきたらしい」
「闇金にまで手を出したか」
呆れたようにため息をついたリーシャに、俺は冷徹な事実を告げる。
「七星香の材料に、南方胡椒は数パーセントしか使っていない。必要な分はすでに別ルートで確保済みだ。あいつが今必死に集めているのは、相場の数倍に跳ね上がった『ただの不良在庫』でしかない」
「でも、なんでそこまでムキになるのよ。普通なら異常に気づくはずでしょ?」
「埋没費用だ」
「何それ?」
俺はテーブルの上の帳簿を指先で叩いた。
「あいつは俺たちを干し殺すために、すでに莫大な資金と労力を注ぎ込んできた。だから『ここまできたら絶対に潰さなければならない』という呪縛に囚われている。投資すればするほど、自分の間違いを認めることができなくなる。それが商人を破滅させる、『埋没費用』の罠だ」
莫大な仕入れ値、倉庫の維持費、そして闇金の法外な利子。
エグバートのキャッシュフローは、すでに完全に枯渇しているはずだ。
「あいつは今、崖っぷちに向かって全力疾走している。あとは勝手に落ちるだけだ」
◇
その「落下」の音は、わずか三日後にルインの街に鳴り響いた。
大通りを抜けた先にあるラド商会の立派な本部は、異様な熱気と怒号に包まれていた。豪華な三階建ての石造りの建物の前は、借金の取り立てに押しかけた商人や闇金の用心棒たちで完全に埋め尽くされている。
「ふざけるな! 今日が支払いの期日だろうが!」
「倉庫には売れない胡椒しか残ってないってのは本当か! 金を返せ!」
固く閉ざされようとしていた扉の前で、ガウンを乱したエグバートが、必死に威厳を取り繕おうと叫んでいた。
「静まれ、お前たち! 私はラド商会の会長、エグバートだぞ! たかが一度の支払いが遅れただけで――」
だが、その声に耳を貸す者はもう一人もいなかった。
現金が尽きた瞬間、「会長」という肩書きはただの紙切れより無価値になる。
「もうあんたの言うことなんて誰も聞かねえよ! 看板を下ろせ!」
暴徒と化した商人の一人が壁によじ登り、誇らしげに掲げられていた三日月の看板を乱暴に引き剥がした。
ガシャアアアンッ!!
重たい木製の看板が石畳に叩きつけられ、真っ二つに割れる。
三年間、リーシャを苦しめ続けた巨大な組織が、自らの強欲さに飲み込まれ、呆気なく崩れ落ちた瞬間だった。
「終わったわね」
少し離れた路地の入り口から、事の顛末を静かに見つめていたリーシャがぽつりと告げた。その声には、底知れぬ空虚感だけが漂っていた。
「ああ。これが、商売における『死』だ」
俺は腕を組んだまま、エグバートから目を離さなかった。
俺の視界には、彼の頭上に浮かぶアイコンがはっきりと見えている。
【激昂】 【プライド】 【強欲】
三十年かけて築き上げた帝国が崩壊していくのを前に、彼はまだ己の失敗を認められず、怒りと意地だけで周囲を威嚇し続けている。
だが、看板が叩き割られ、ついに扉が押し破られて暴徒が建物の中へと雪崩れ込んでいった。その時だった。
絶対的な絶望と、「取り返しのつかない現実」の許容量が限界を超えた瞬間。
自己防衛のために、彼の脳がプツリと全ての感情を強制シャットダウンしたのだ。
エグバートの動きが、ぴたりと止まった。
「ん?」
俺は思わず、身を乗り出した。こめかみにチクリと痛みが走るほど、スキルを凝視する。
エグバートの頭上で激しく点滅していた赤いアイコンたちが、まるで電源を引き抜かれたように、次々と消えていく。
そして後に残ったのは、たった一つの、真っ白なアイコンだけだった。
【空白】
絶望ですらない。怒りも、悲しみも、後悔すらもない。
俺がこれまで無数の人間を見てきて、一度も目にしたことのない異様な状態だった。
エグバートは、誰にも気づかれることなく、ふらふらと群衆の隙間を縫って歩き出した。
暴徒が金目のものを漁る中、彼は半壊した自らの執務室へと亡霊のように滑り込む。
荒らされた部屋の中央で、彼は虚ろな瞳のまま床に這いつくばった。
その時だ。誰もいないはずの薄暗い室内に、不自然な『ノイズ』が響いた。
『可哀想に』
鼓膜を通さず、直接脳に語りかけてくるような、おぞましくも甘い声。
感情の器が空っぽになった彼に、その声は染み渡るように入り込んでいく。
『すべてを奪われた哀れな男よ。お前の築いたものを壊した者たちに、相応の罰を与えよう』
エグバートの視線が、壁の裏に隠された金庫へと引き寄せられる。
泥棒たちが見つけられなかったその奥から、彼は震える手で不気味に脈打つ『黒い石』を取り出した。
『復讐だ。お前を笑った奴らを、すべて道連れにしてやれ』
甘い囁きが、虚無だった彼の瞳に「歪んだ狂気」の光を宿らせる。
彼はもはや商人ではなく、ただ悪意の操り人形として、実体を持たない亡霊のように裏口から暗い路地へと消えていった。
「ゼン。あいつ」
ノクトが、低い声で俺を見上げた。
俺はただ、黙って首を振った。
大勝利だ。新星商会を干し殺そうとしたラド商会は、市場から消えた。血も流さず、剣も魔法も使わずに、ビジネスで決着をつけた。
なのに、胸の奥には鉛のような冷たいしこりが落ちたままだった。
すべてを失い、感情が抜け落ちた男。
あの『空白』の中に、最後に何か異物のようなものが滑り込んでいった気がした。
嫌な予感が、泥のように胸の底で渦巻いていた。
その予感が、最悪の形でルインの街を飲み込むことになるのは、それからわずか五日後のことだった。




