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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第1章 「口だけ勇者」誕生

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第16話 市場を揺るがす香り

 ルインの市場は、朝からやかましい。


 怒号みたいな客引きの声。馬車の車輪が石畳を渡る音。

 だが今日、俺たちが陣取ったのはいつもの大通りの端じゃない。交差点に近い、少し開けた場所だ。

 ラド商会に睨まれるだろうが、それが狙いである。


 用意したのは、立派な商品棚でも山積みの木箱でもない。

 小さな『炭火台』。

 それから、竹串に刺した大量の『安物の干し肉』。ただそれだけだ。


「ゼン……本当にこれでいくの?」


 隣に立つリーシャの声が、上ずっている。彼女の視線がせわしなく周囲を泳いだ。

 無理もない。

 遠巻きにこちらを眺める商人たちの目が、ひどく冷たかった。彼らの襟元にはラド商会の三日月の印が見える。


『仕入れを絶たれて、ついに安飯屋にでも成り下がったか』。


 声に出さなくても、薄ら笑いがそう語っていた。


「リーシャ、小皿の準備はいいな」

「え、ええ。言われた通り、山ほど用意したけど……」

「よし。じゃあ、始めるぞ」


 俺は炭火に向き直った。

 熱され、脂を落とし始めた干し肉の串。

 そこに、小袋から赤と黄金色の粉末をふたつまみ引き出す。ミレナが徹夜で仕上げてくれた『七星香』だ。


 パラリ、と。

 指先から、それを振りかけた。


――ジュウウウッ!!


 熱された肉の脂と、粉末が触れ合った瞬間。


 空気が、爆発した。


 鼻を直接ぶん殴ってくるような、圧倒的な香り。

 南方胡椒の鋭い刺激。湿地のハーブが持つ深い森の匂い。唐辛子のようなピリっとする辛さ。

 単体では道端の雑草と見向きもされない素材たちが、熱という触媒を得て完全に噛み合った。

 一つの『巨大な食欲の塊』となって、市場の空気を一瞬で塗り替えていく。


「なんだ、あれ」


 通りすがりの子供が足を止めた。

 荷運びの男が振り返り、買い物かごを持った主婦が鼻をひくつかせる。

 香りは早い。視界よりも音よりも先に、人間の『本能』のど真ん中を刺激する。


 俺は焼き上がった肉をナイフで細かく切り、小皿に乗せた。

 一番手前で足を止めていた、警戒心丸出しの中年職人。彼に向かって、スッと皿を差し出す。


「ご試食です。タダでどうぞ」

「……タダ?」


 男の眉間がこれでもかと寄る。

 当然だ。この街にタダで美味いものを配る奴なんていない。

 そもそも試食販売という概念がない。


「何か怪しい薬でも入ってるんじゃねえか。タダより高いものはないって言うからな」

「ごもっともです」


 俺は皿を引かない。一切の攻撃性を消した笑みを貼り付けたまま。


「ですが、騙されたと思って一口だけどうぞ。不味ければ、その辺に吐き出していただいて構いません」


 男は俺の顔と、皿の上の肉を交互に睨みつけた。

 だが、暴力的な匂いの誘惑には勝てない。彼はひったくるように肉をつまみ、口に放り込んだ。


 一回、二回。

 男の顎が動く。

 そして、ピタリと止まった。


 俺の目には見えていた。

 男の頭上に浮かんでいた【警戒】のアイコンが、パチンと音を立てて割れるのが。

 代わりに湧き上がったのは、強烈な光を放つ【歓喜】、そして【食欲】。


「なんだ、これ!!」


 男は目を見開き、自分が何を味わっているのか理解が追いつかない顔で、隣にいた連れの袖を力任せに引いた。


「おい、これ食ってみろ! 早く!」

「なんだよ急に、俺は怪しいもんは……」

「いいから食えって!!」


 無理やり肉をねじ込まれた連れの男も、一秒後には同じ顔をしていた。

 安くて硬い、臭みのある干し肉。

 それが、七星香の魔法でとんでもない複雑で奥深い御馳走に化けている。


「うまっ、なんだこの香り!? ただの胡椒じゃねえぞ」

「おい、俺にも一口くれ!」


 決壊した。

 タダで肉を配る奇特な男の炭火台の周りに、人が雪崩れ込んでくる。試食した驚きが次へと伝染していく。市場の喧騒を飲み込むような、熱狂の渦。


「おい、兄ちゃん! この粉、どこで買えるんだ!?」

「私にも! うちの亭主、安い肉だと文句ばかり言うから……これがあれば!」


 ズキッ、と。

 こめかみの奥が嫌な熱を持った。

 殺到する群衆の感情を読み、言葉を選び続けるスキルの代償だ。

 俺は悟られないよう、指先を一度だけ強く握りしめ、叫んだ。


「リーシャ! 小皿の補充! 商品の案内だ!」


 弾かれたように、リーシャの顔が『商人』に変わる。


「は、はいっ! 皆様、こちらで使用しているのは当商会が独占開発した新しい香辛料『七星香』です! お求めの方は、こちらの列へどうぞ!」


 よく通る声が響く。

 客たちが争うように、リーシャの前の七星香の包みに群がっていく。


「ゼ、ゼン! 試食用の肉がもう足りないわ!」


 小皿を配りながら悲鳴を上げるリーシャ越しに、俺は背後に潜んでいた小さな影に視線を投げた。


「ノクト、走れ。宿の厨房から追加の肉をありったけ持ってこい。代金はツケでいい」

「わかった」


 短い返事。ノクトは水滴が流れるように人混みの隙間を抜け、音もなく裏路地へ消えていった。

 角を持たない気配を消す彼の生存戦略が、この混沌とした前線で完璧な斥候として機能している。


 ミレナが命を削って創り出した『実体』。

 俺が市場の急所を突いてこじ開けた『局面』。

 リーシャが回す『流通』。

 ノクトが繋ぐ『兵站』。


 仕入れを絶たれ、孤立無援のゴミ山に落とされたはずの俺たち。

 それがどうだ。

 誰一人欠けることなく、今、この市場のど真ん中で完璧な歯車として回っている。



     ◇



 昼を過ぎる頃。

 市場の主要な通路は、七星香を求める人の壁で完全に塞がっていた。


「すまない! 今日の在庫はここまでだ! 明日また同じ時間に持ってこさせる!」


 俺の宣言に、悲鳴みたいな落胆の声が上がる。

『高くてもいいから売ってくれ』『明日必ず来るから予約させてくれ』。

 飛び交う熱狂の中、俺は引きつりそうになる顔の筋肉を気合で抑え、ただひたすらに頭を下げ続けた。

 これが、今の俺にできる唯一の『戦闘』だ。


「ゼ、ゼン……! 全部、全部売れたわ!」


 片付けの最中、リーシャが革袋を抱きしめながら震える声で言った。


「ラド商会が扱ってる最高級の胡椒よりも、ずっと高い値段で……!」


 その瞳には、もう恐怖はない。恐怖を乗り越えた商人としての誇りと、俺への絶対の信頼だけが光っていた。


「ああ。見事な売りっぷりだった。だが、喜ぶのはまだ早いぞ、リーシャ」


 俺は炭火台に水をぶちまけた。

 ジュッと上がる白い煙。その向こう、ラド商会本部の方向へ目を向ける。


 建物の陰。

 三日月のバッジをつけた男たちが、幽霊みたいに立ち尽くしていた。ラド商会の仲買人たちだ。

 血の気が引き、真っ青な顔をしている。

 仕入れを完全に封鎖し、俺たちを干し殺したはずだった。なのに、自分たちの全く知らない得体の知れない粉一つで、市場の熱を根こそぎ奪われたのだから。


 男の一人が何かを喚き、慌てて本部の方向へ走り出す。残りの連中も、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


「本当の勝負は明日からだ。あいつらは必ず、この七星香を潰しにくる」

「潰すって……どうやって?」

「それがわかれば苦労はしない。ただ……」


 強欲な人間が、追い詰められた時に取る行動。

 大体、相場は決まっている。


 俺は視界の端から消えていくラドの商人たちの背中を睨んだ。


 背筋を、冷たいものが這い上がった。

 何かが、ひどく嫌な感じがする。

 だが、その正体が何なのか。焦点を結べないまま、俺は黙々と道具を片付け始めた。

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