第12話 ささやかな祝宴
ミレナとの契約を結んだ、その夜。
俺たちは宿の食堂に集まっていた。
鼻をくすぐるのは、いつもの麦の焦げたような固いパンの匂いじゃない。
香草をたっぷり詰めて焼いた魚の油の匂い。テーブルには、結露で水滴がついた冷えたエールが並んでいる。
「ほら、ゼン。今日はあんたの分だけ、特別に肉を多めにしといたから。ちゃんと食べなさいよ」
ドン、と。
リーシャが、湯気を立てる具沢山のシチューを俺の前に置いた。
その顔には、暗い市場の隅で埃を被っていた頃の、焦燥感はない。代わりに、よく通る声と、少しだけ笑顔があった。
「悪いな。でも、どうして俺だけ特別なんだ?」
「あんた、自分が思ってる以上に顔色悪い時があるのよ。頭痛を誤魔化す時、こめかみを押さえるでしょ。私が気づかないとでも思った?」
リーシャが、呆れたように小さく息を吐いた。
ギクリとして、俺はシチューの匙を止める。
スキルを使うたびに襲いかかってくる、脳を削られるような疲労。ひた隠しにしていたつもりだったが、彼女の商人の目には、すっかり見透かされていたらしい。
「冷めないうちに食べなさい。うちの頭脳が倒れたら、私が困るんだから」
ふいっとそっぽを向いた彼女の横顔を眺めながら、俺は木のジョッキを傾けた。
冷たいエールが、火照った喉を気持ちよく潤す。
そこへ、工房の後片付けを終えたらしいミレナが食堂に入ってきた。
相変わらず、煤と油の匂いをうっすらとさせている。彼女は丸眼鏡を中指でくいっと押し上げると、俺の隣の席にどさりと腰を下ろした。
「おい、コンサル。これを見ろ」
ぶっきらぼうな声と一緒に、小さな布の包みがテーブルに放られた。
中から転がり出てきたのは――見慣れたあの無骨で巨大な四角い石鹸じゃない。
薄く、小さな欠片が連なったような、奇妙な形をしていた。
「なんだ、これは?」
「お前が前に言っていた『携帯性』という言葉が引っかかっていてな」
ミレナは腕を組み、小さく鼻を鳴らした。
「一回使い切りのサイズに切り分け、薄い蝋紙で包み直してみた。これなら野営の時、荷物の僅かな隙間にもねじ込める。どうだ?」
彼女の視線が、丸眼鏡の奥から俺を探るように揺れている。
少しだけ上ずった声。
あの、他人の言葉なんて一切聞こうとしなかった職人が。俺が何気なくこぼした一言を拾い上げ、自分の技術で勝負に出ようとしている。
「素晴らしい。これなら傭兵だけじゃなく、長旅をする商人にもまとめ売りできるぞ。完璧だ、ミレナ」
「ふん。私を誰だと思っている。これくらい朝飯前だ」
ミレナはツンと顔を背けた。
だが、その耳の先が、夕焼けみたいに微かに赤く染まっているのを、俺はつい見てしまった。
◇
すっかりテーブルの皿が空いた頃。
リーシャがエールの空っぽのジョッキを指でくるくると回しながら、ぽつりとこぼした。
「ねえ。最近、夢みたいだなって思うのよ」
「夢?」
「ええ。たった数週間前まで、私、市場の隅っこで……」
彼女は一瞬、言葉を詰まらせた。
「あのラド商会に干されて、腐りかけてたでしょ。毎日、夕方になるのが怖かった。売れない品物を荷馬車に片付けてる時が、一番惨めでさ……」
リーシャは静かに息を吸い込み、ふふっ、と短く笑った。
「でも、あんたを拾ってから全部が変わった。あんたが私の眼を『本物だ』って言ってくれて……私の品物を欲しがるお客さんが、毎日列を作ってくれる。大袈裟に聞こえるかもしれないけどね、あんたは、私の世界を救ってくれたのよ」
「私もだ」
不意に、ミレナが小さな小瓶を俺の前にコトッと置いた。
「なんだ、これ?」
「お前の、その荒れた手のための軟膏だ。新星商会で売る気はない」
ミレナはまた丸眼鏡を押し上げた。
「私がお前のためだけに、最高級の素材を原価度外視で練り上げた。夜寝る前に塗れ」
また、ミレナの耳が真っ赤になっていた。
二人からの、混じり気のないまっすぐな感謝。
そして、その言葉の奥に隠しきれていない、熱っぽい何か。
無意識のうちに作動したスキルが、二人の頭上に【信頼】と【好意】のアイコンをノイズ混じりに明滅させた。
ズキリ、と。脳の奥を、強引に精神力を削り取られる鋭い痛みが突き抜ける。
胃の奥が、氷を飲み込んだみたいに冷え切っていく。
前の世界で、深夜のチャット画面の先。イルさんから『ちょっと最近、しんどいかも』と送られてきたあの夜。
踏み込みたかった。
でも、もし踏み込んで「重い」と引かれたら? せっかくの心地よい関係が、俺のせいで壊れてしまったら?
迷って、迷って。
結局俺が打ち返したのは、『あんまり無理しないでね』という、誰にでも言える安全なテンプレ文脈だった。
今ここで、俺が彼女たちの気持ちに踏み込めば。
この温かくて、脆い、心地よい時間は、いつか必ず壊れてしまうんじゃないか。
「二人とも、俺を過大評価しすぎだ」
俺の口から飛び出したのは、自分でも嫌になるくらい乾いた、平坦な声だった。
「俺はただ、君たちの持っているリソースを最適化して、正しい市場に届けた。それだけだ。ビジネスパートナーとして、当たり前の仕事をしたまでだよ」
リーシャの瞳が、一瞬だけ大きく揺れた。
見えた。傷つけたのが見えていた。
それでも、俺は冷たいジョッキの縁へむりやり視線を逸らした。
「相変わらず、可愛くないわね」
「照れてるのか? そういうところも、なんだか『らしい』けど」
二人はすぐにいつものように笑って、再びエールを口に運んだ。
俺はただ、ぬるくなったエールを見つめていた。
言葉の罠を張って市場の人間を操れるくせに。
自分の感情だけは、いつも、こんなに不器用で、臆病で、届け方がわからない。情けない。
――その時だった。
食堂の入り口の重い扉が、軋む音を立てて少しだけ開いた。
隙間から、三日月のバッジを胸につけた男がこちらをみて、
チッ、と。
あからさまな舌打ちを残して、夜の闇の中へ再び姿を消した。
俺は、シチューの匙を止めた。
背筋の冷えが、一気に全身へ回る。
「なあ、リーシャ」
ジョッキを置き、俺はできるだけ声を低くした。
「ラド商会っていうのは、この街でどれくらい力を持ってるんだ?」
リーシャの顔から、すっと笑みが消え失せた。
「ルインの仕入れ先の、七割を押さえてるわ。大通りの一等地も、主要な倉庫も、ほとんど全部よ」
「逆らった商人は?」
「私が知ってる限りで、三件。翌月には廃業してた。一人は夜逃げして、一人は火事。もう一人は……理由も分からないまま、ある日突然、店が閉まってたわ」
横で、ミレナが小さく息を呑む音が聞こえた。
リーシャの声には、怒りがない。
ただ、巨大な壁を前にしたような、長い間その狂気と隣り合わせで生きてきた人間の、諦めしかなかった。
俺は頭の中で、昼間の帳簿の歪んだ数字と、今の情報を照らし合わせた。
仕入れ先の七割。証拠を残さない火事や夜逃げ。
そして今の、あからさまな監視の目。
もう、動いている。
新星商会という異物を排除するための、巨大なシステムが。
「そうか……」
俺は短く息を吐き、冷めたシチューを口に運んだ。
ただの片隅の商人として、平穏に稼いで生きたかっただけなんだが、どうやら無理らしい。
妙に嫌な胸騒ぎがする。




