第11話 数字が示す異変
羊皮紙をなぞる指先が、ぴたりと止まった。
窓の外からは、ルインの市場のざわめきが聞こえてくる。
荷馬車の車輪が石畳を転がる音。商人の怒声。
いつもと変わらない、街の喧騒。
なのに、目の前の帳簿に書き込んだ数字が、その風景から嫌に浮き上がって見えた。
香辛料の仕入れ値。鉄鉱石の卸価格。薬草の市場相場。
単純に「値上がりしている」わけじゃない。
その上がり方が、機械みたいにピタリと揃いすぎていて、気持ち悪い。
なんだ、これ。
背筋を、ぞわりと冷たいものが這い上がった。
ルインの市場を牛耳るラド商会の資金の動き。
いくつかの卸売りの愚痴から拾い集めただけの、バラバラな情報の欠片。
それを並べていくと――莫大なお金が、どこかへ「消えて」いるのがわかる。
そしてそれと符合するように、『呪物』の闇相場が、異常な速度で高騰している。
誰かが、金に糸目をつけず『得体の知れない何か』を搔き集めている?
深夜のオフィス。冷たい蛍光灯の光。
キーボードを叩く、乾いた音。
財務諸表の問題点を洗い出し、「破綻のシナリオ」をひたすら打ち込んだ日々。
俺は、その資料を誰よりも早く、正確に作れた。
しかし、
プレゼンの場に立つと、いつも手が震えた。
喉がカラカラに乾いて、会議室の重い沈黙が肌に刺さって。
言葉は音にならないまま、消えていく。
俺が作った資料を読み上げるのは、いつも別の誰かだった。
声を持たなかった分、数字を追う目だけが残った。
だから、分かる。
複数の品物が同時に、同じスピードで高くなるこの動き。
自然な流れじゃない。
誰かの手が、市場の首根っこを力任せに押し上げている。
「ゼン、今いい?」
ノックの音と同時に、リーシャが飛び込んできた。
いつもなら「疲れたー」と笑う顔が、今日は硬い。
唇の端が、少しだけ引き結ばれている。
「ちょうどよかった。座ってくれ」
「あのね、今日の仕入れで変なことがあって」
向かいの椅子に座るなり、彼女は布袋からくしゃくしゃになった紙切れを取り出した。
「先週まで普通に取引してた香辛料の卸商に、急に『在庫がない』って突っぱねられたの。三件回って全滅。仕方ないから別のルートを探したんだけど……値段、先月の倍になってた」
「南からの入荷は?」
「それが――聞いても、みんな目を逸らすの。一人だけ教えてくれた人がいたんだけど、南方からの定期便が、ぱったり来なくなったって」
ペンを置き、俺は指の腹で眉間を強く揉んだ。
南からの物流停止。
異常な価格高騰と、闇相場のうねり。
「売れない」ではなく「在庫が存在しない」という事実。
前の世界なら、ここで一晩徹夜して分厚い資料を作り上げただろう。
それを上司のデスクに置いて、自分は黙って影に引っ込む。
でも、今は。
この帳簿の異常に気づけるのは、俺しかいない。
資料を渡す相手なんて、どこにもいない。
右目の奥で、チリッと痛みが走った。
いつもの頭痛の前兆だ。
市場ですれ違う人間の表情、声の強弱、荷馬車の積載量。
頭に入ってきた情報が多すぎて、脳の限界を超えかけている。
「他に何か聞いたか? ちょっとした愚痴でもいい」
頭痛を悟られないよう、できるだけ平坦な声を出す。
「えっと、王都から来た行商人が怒ってた。獣人を雇うのに、新しい税金がかかるようになったんだって。それと……」
リーシャは一瞬、ためらった。
「勇者一行がこっちに向かってるって。流石にそれは、ただの噂だと思うけど」
「噂? 魔王を倒す救世主様が、こんな辺境に何の用だ」
「それが……魔物を討伐するのは本当らしいんだけど、やり方が無茶苦茶みたいで。魔物を倒すついでに、街の家屋や橋まで平気で吹き飛ばしていくんだって。『あいつらは救世主なんかじゃない、歩く災害だ』って、よその街から逃げてきた商人が青ざめてたわ」
歩く災害、か。冗談じゃない。
「……それで、その噂を何人から聞いた?」
「三人。別々の場所で」
肺の奥に溜まっていた息を、細く長く吐き出した。
点が、多すぎる。
バラバラだった破片が、一つの大きな歯車に組み上がっていくような、気味の悪い感触。
数字は読める。
でもその奥にいる人間の「悪意」の形までは、まだ見えない。
「ラド商会の動きは?」
リーシャの顔から、さっと血の気が引くのがわかった。
「そっちも。ミレナの工房の近くに、見慣れない男が何人か立ってた。直接何をしてくるわけじゃないけど、あれは……みせしめよ」
「そうか」
テーブルに両肘を突いて、両手を組む。
市場全体が、目に見えない巨大な渦に飲み込まれようとしている。
その恐ろしさが、足元からじんわりと這い上がってくる。
「リーシャ。少しの間、仕入れ先を南ルート以外に分散させてくれ。数は減ってもいい。とにかく、一つのルートに依存するのは危ない」
「何か、わかったの?」
彼女の橙色の瞳が、すがるように俺を見つめている。
「わからないことが、わかった」
少しの間、リーシャは俺の顔を見つめ返した。
やがて小さく頷いて、「任せて」と言いながら立ち上がった。
その声が、少しだけ震えていたのを俺は聞いた。
扉がパタンと閉まる。
俺は立ち上がり、窓を開け放った。
いつの間にか、雨が上がっていた。
湿った土と、屋台から流れてくる肉を焼く匂い。
街は、俺の不安なんて知る由もなく、ただ逞しく呼吸している。
俺は大きく息を吸い込み、肺一杯に満たした冷たい空気を、ゆっくりと吐き出した。




