第10話 野戦装備と森の薬草
夜明けの空は、まだ青とも灰ともつかない色をしていた。
宿の裏庭に立つと、冷たい空気がそのまま肺の奥まで刺さってくる。
徹夜明けの体には、さすがにきつい。
片方は、小綺麗な木箱に入っている。布が敷かれていて、金の紐までついていた。いかにも"それっぽい"。
もう一方は。
漁網の端材でぐるぐると縛り上げただけの、ただの塊だ。
「同じ品物なのに、まったく別物みたい」
リーシャがぼそっと言う。目は赤いままだった。
擦れた声の底に、微かな熱がこもっていた。
「本当の価値を決めるのは、作り手じゃない」
俺は、網で縛られた不格好な石鹸を目の高さに掲げた。
「こっちは冒険者や傭兵向け。名前は『野戦用・治癒石鹸』だ」
網の硬くざらついた感触を、指の腹でゆっくりなぞる。
「あいつらにとって、綺麗な箱なんて邪魔なゴミでしかない。でも、この網なら、結び目で体をこすれば皮脂も泥も削り落とせる。使い終わったら腰のベルトに吊るして水切りもできる。そのまま、相場の五割増しでふっかける」
「こっちは?」
彼女が木箱を指さす。
「そっちは逆だ。見た目重視」
俺は肩をすくめる。
「『森の薬草石鹸』。それっぽいだろ」
「……それっぽいわね」
呆れたような顔をされた。
「三倍で売る」
「三倍!?」
声が裏返る。
「買うやつは買う」
言い切ると、リーシャはしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「……つまり、別の物として売るってことね」
「そういうことだ」
うまくいくかどうかは、正直わからない。でも、やるしかない。
俺は背を伸ばした。
「今日は勝負だ」
◇
市場は朝からうるさかった。
声、足音、物音。全部が混ざって、頭が痛くなるくらいだ。
だが。
店を開けてから一時間、俺たちの露店の前だけ、静まり返っていた。
極端すぎる二つの品揃え。
足を止めるどころか、気味の悪いものでも見るような顔で通り過ぎていく客ばかりだ。
「……ゼン。誰も、止まってくれないわ」
リーシャの指が、俺の袖をきつく握りしめている。
布越しに伝わる、小刻みな震え。
彼女の横顔は、絶望に押しつぶされそうなほど強張っていた。
無理もない。
なけなしの資金を叩いて仕入れた在庫だ。これでコケれば、俺たちの商会は今日で息絶える。
俺は腕を組んだまま、じっと通りを見据え続けた。
口の中がパサパサに乾いていた。それでも動かない。
一点だけを、ただ待ち続ける。
「焦るな。刺さる人間には、必ず心臓のど真ん中に突き刺さる」
ズン、ズンと。
重い足音が、こちらへ近づいてきた。
でかい男だった。傭兵だろう。腕に傷が残っている。
そいつの視線が、無造作に積まれた「網入り石鹸」の山でピタリと止まった。
ほんの一瞬だけど、足も止まる。
無機質な木塊を見るようだった瞳に、値踏みするような鋭い光が宿る。
(来たな)
俺はリーシャの背中を、見えないようにトンと叩いた。合図だ。
リーシャの背筋が、ピンと伸びる。
昨晩、何度も何度も叩き込んだセリフ。彼女は一切の迷いなく、それを男へ向かって放った。
「お客さん、お目が高いですね。それは薬草特化の工房に作らせた『野戦用・治癒石鹸』です」
「野戦用?」
「ええ。網で血糊や泥をゴリゴリ落として、使い終わったらそのまま腰のベルトに吊るして水切りできます。ポーションを一本使うほどでもない小傷なら、これで洗い流せば翌朝には塞がってますよ」
男の顔つきが、劇的に変わった。
ごつい指先で網目の感触を確かめ、鼻を近づける。
硬い唇が、ニヤリと歪んだ。
「……現場のことがよく分かってやがる。悪くねえ、こいつはいい実戦装備だ。三つもらおう」
チャリン。
硬貨が木箱に落ちる、澄んだ音。
ひどく淀んでいた空気を、その音が一刀両断にした。
そこからは、もう魔法みたいだった。
「おい、これを見ろ。野戦特化の治癒石鹸だ」
男が仲間を呼び、荒くれ者たちの間を熱病みたいに噂が駆け巡る。
気づけば、露店の前は泥にまみれた屈強な男たちで黒山の人だかりになっていた。
さらに。
むさ苦しい男たちが群がっているのを、遠巻きに見ていた富裕層の夫人たちへ。
リーシャはすかさず、美しい木箱をうやうやしく差し出した。
「奥様。こちらは筆頭職人が肌を整えるためだけに作り上げた『森の薬草石鹸』です。月に数個しか作れない、極上の品でして」
相場の三倍。
どう考えても、狂った値段だ。
でも夫人たちは、あの野蛮な男たちには手が届かない特別な品を持てる、という優越感に唇をほころばせて、迷いもなく財布の紐を解いていく。
太陽が真上を通り過ぎる頃。
数ヶ月分あったはずの埃っぽい在庫は、一欠片も残っていなかった。
◇
夕刻。
長く伸びた赤黒い西日が、あの匂いのきつい裏路地の工房に差し込んでいる。
「……嘘、だろ」
ミレナは、作業台の上にぶちまけられた金貨と銀貨の山を見て、ただ口を半開きにしていた。
丸眼鏡の奥の目が、限界まで見開かれている。
「売上金だ。約束通り、安売りは一切してない。むしろ、倍以上の値段で売り捌いた」
俺は硬貨の山を、指先でコンと弾いた。
「あんたの石鹸には、確かな力がある。ただ、それを欲しがっている人間に届けるための言葉が足りなかった。俺たちはそれを用意しただけだ」
ミレナは、もう何も言い返さなかった。
ただ、鈍い光を放つ硬貨の山を、じっと見つめている。
やがて。
荒れていて、白くなっている両手を、ゆっくりと顔の高さまで持ち上げた。
「三年だ」
ぽつりと出た声は小さかった。
「父さんが死んでから、三年だ。毎日、毎日……誰も見向きもしない石鹸をこねて。ただ一人でも、私の仕事を分かってくれる人間がいるって信じて。この暗い工房で、ずっと、ずっと……っ」
声が、途切れた。
三年間、彼女を覆い続けていた重い意地が、音を立てて崩れていく。
そのひび割れの奥から、あふれ出してきたのは、言葉にならない、何かだった。
ポツリ。
木板の上に、丸く濃い染みができた。
丸眼鏡の奥から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
リーシャが無言で歩み寄り、その小さな背中をきつく抱きしめた。
ミレナの震える肩を見つめながら、俺の胸の奥で、何かが静かにほどけていく感覚があった。
元の世界で、誰にも読まれなかった資料たち。
あの灰色の虚しさが、今ここで、少しだけ薄まった気がした。
「約束だ」
俺は、ミレナに向けて手を差し出す。
「明日から、この工房で作る品は全て俺たち『新星商会』が買い上げる。売る作業は、こっちに任せておけ」
ミレナはエプロンの袖で乱暴に涙を拭い、真っ赤になった目で俺を睨みつけた。
「負けたよ。お前の、そのペテンみたいな口先にな」
彼女は俺の手を、骨が軋む力で握り返してくる。
掌に触れる、ゴツゴツとした硬いマメ。
三年間、諦めずに磨き続けてきた、本物の証明だった。




