第119話 ちゃんと言えた
時間は、少しだけ戻る。
三つの国が名を交わした、その日の夜のことだ。
与えられた部屋でくつろいでいると、イルミナの侍従が俺を呼びに来た。女王が控えに使っていた離れの館。通された部屋に灯りはなく、暖炉の火だけが爆ぜていた。
「座ってください」
イルミナは火の前にいた。正装のままで、髪だけを下ろしていた。卓には酒も茶もない。話をするためだけの部屋だった。
「あなたに、話していないことが、ひとつだけあります」
俺は黙って待った。急かさないのは交渉の癖だが、このときは、ただ怖かったんだと思う。
「この世界に来る前。私も、女神に会いました」
火が爆ぜた。
「金色の髪に、碧い目の方でした。優しくて、でも、どこか寂しそうで。私に新しい生のことを説明して、最後に、こう言ったんです」
イルミナは一度、火に目を落とした。
「どうか、あの方を待っていてあげてくださいね、と」
暖炉の火が、急に遠くなった。
金色の髪。碧い瞳。優しくて、寂しい。
イリアだ。
俺を送り出すとき、あの女神は言った。あの方を探してください、と。先に発つ者には、待て。後から発つ者には、探せ。
順番まで、組んであった。
「俺は、探せと言われた」
声が掠れた。イルミナが顔を上げる。
「君は、待てと言われた。それだけのために」
それだけのために、あの子はそこに在ったのだ。一生をひとつ跨いで、二人の人間を引き合わせる。そのためだけの、神様だった。
計算は合わない。イリアが神になった時期と、イルが送られた時期は、どう並べても噛み合わない。前職なら、矛盾点として三つ挙げて突き返すところだ。やめた。死んだ人間を別の世界へ運ぶこと自体が、もう時間の外の御業だ。時を超えるものに、前後を問うだけ野暮だろう。
暖炉の火が滲んで、ただの橙色の塊になった。頬を伝うものを、拭く気にもなれなかった。
盤面だ。これは全部、あの子が敷いた盤面だった。報酬も、見返りもない。俺たちが会う。それだけが目的の。
「世界がどう作られたかなんて」
イルミナの声がした。見ると、彼女も頬を濡らしたまま、笑っていた。
「どうでもいいんです、そんなこと。私は、ここで、あなたに会えた。それで十分」
一瞬、足元が揺れた。
最高の盤面。なら、俺が打ってきた手は、全部誰かの想定の内側だったのか。この口も、この言葉も、用意された駒のひとつだったのか。
違う。すぐに、思い直せた。
原生林を這ったのは俺だ。泥の味も覚えている。差し出した手を払われて、それでももう一度伸ばしたのも、逃げたい夜に、震えながら次の言葉を選んだのも、全部この俺だ。盤面は用意できても、指し手までは用意できない。
前世では、言えなかった。画面の向こうの相手に、会ってみたい、と打ちかけては消した。何度もだ。言葉の仕事をしていながら、いちばん届けたい言葉から逃げた。
もう、逃げない。
「イルさん」
ゲームの頃の呼び方が、口をついて出た。渉外官の敬語が、どこかに落ちた。
「俺もだよ。ずっと、君に会いたかった」
イルミナは息を呑んで、それから、いたずらが成功した子供のようにつぶやいた。
「……待っていましたよ。あなたが、そう言ってくれるのを」
そう言って、魔王でも女王でもない、ただの笑顔だった。そのまま、すとん、と俺の胸に額を預けてくる。
口で食ってきた男が、何も返せなかった。速くなった鼓動が彼女に伝わってしまわないか、それだけが心配だった。
しばらくして、二人で露台に出た。
手すりが夜気で冷えている。見上げると、見慣れない星が並んでいた。二度目の人生もずいぶん長くなるのに、この空の星座だけは、いまだに覚えられない。
ただ、隣に立つ彼女の体温だけは、嫌になるくらいはっきりと分かった。
「イリア」
星に向かって、声に出した。祈り方は知らない。だから、いつもの調子で言った。
「こんな最高の盤面を用意されて、俺たちが不幸になるわけ、ないだろ」
隣で、イルミナが小さく息を呑んだ。俺たちの背中を、暖炉のものではない淡い光が、一瞬だけ撫でて消えた。
振り向かなかった。確かめる必要は、なかった。
誰かの用意した物語は、ここで終わる。ここから先は、俺たちが選ぶ。
手すりの上で、イルミナの手が、俺の手に重なった。夜気で冷えた指先に、彼女の温もりが染みてくる。
もう、逃げないと決めたんだ。俺は、その小さな手を、今度は逃がさないように握り返した。
「……あ」
イルミナが小さく声を漏らして、それから、さらに強く握り込んできた。
次の段の話は、いずれする。期限は切らない。こうして手を繋いだまま、ゆっくり歩いていけばいい。それが長持ちのコツだ。
言葉を届けられなかった男の話は、これでおしまいだ。
やっと、ちゃんと言えた。
(完)
あとがき
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
この物語の骨格は、十年前に考えました。
当時はまだ「いつか小説にできたらいいな」とぼんやり思っていただけでしたが、願っているうちにあっという間に十年が経ってしまいました。
それでも、諦めきれずに昨年から本格的に書き始め、書き溜め、ようやく一年がかりで完結させることができました。
主人公が「言葉を届ける」ことをテーマとした物語を書いていたのに、肝心の作者自身が十年も言葉を届けるのを先延ばしにしていたなんて、少しおかしな話です。
剣も魔法も持たない最弱の男が、ただ言葉だけを武器に頑張る姿を描きながら、私自身もこの物語を最後まで届けられて、本当に良かったです。
読者の皆さんがこの物語を読んでくださった時間に、少しでも温かさや希望を感じていただけていたら、これ以上嬉しいことはありません。
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多くの方から応援をいただけたら、外伝や続編を書きたいという気持ちも強くなりますので、ぜひよろしくお願いします。
この作品に関わってくださったすべての方々、そして何より、ここまで付き合ってくれた読者の皆様に、心から感謝を申し上げます。
またいつか、新しい物語でお会いできる日を夢見ながら。




