第117話 権威と権力
戦が終わって、十日が経った。
王都は思ったより早く息を吹き返していた。市場が開き、崩れた城壁に足場が組まれ、朝から槌の音が止まない。謁見の間も半分は工事中で、漆喰の匂いが抜けなかった。歴史に残る発表の舞台にしては、ずいぶん埃っぽい。
玉座の前に、王が立っていた。
痩せた老人だ。十六年も悪魔の器にされていた体は、見ている方が不安になるくらい薄い。それでも侍従の腕を払って、自分の足で立っていた。
「余は、退位する」
ざわめきは小さかった。みんな、どこかで覚悟していたんだろう。
「器であった。操られていた。それは事実だ。だが、事実は罪を拭わぬ。命じた声はこの喉から出た。判を押したのは、この手だ」
王は一拍置いた。
「グランドール、ワイドランド、ロングケープ」
空気が変わった。潰された共生村の名だ。王家の人間が公式の場でその名を口にしたのは、初めてのことだった。
「余が潰し、余が焼かせた。死者の名はすべて記録させる。余の、最後の政務として」
それから、王は娘の名を呼んだ。
「フローラ」
王女が顔を上げた。
「そなたを、余の後継者に指名する」
この場の誰より、本人が驚いていた。
「お待ちください、父上」
声が裏返っていた。民に慕われる王女の、誰も聞いたことのない声だった。
「わたくしには無理です。死んだ人たちの名前を書き留めることはできます。生きた証を残すことも。でも、税を決めて、人を動かして、国を回すなんて」
「その仕事なら、別の人間にやらせればいい」
言ったのは俺だ。全員の視線が集まる。半分は「誰だこの片目の男」という目だった。気持ちは分かる。
王がうなずいた。
「ゼン殿」
末席から一歩出る。すでに追放は解かれていた。
「遠い、東の島国の話をさせてください。その国の王家は、千年以上続いています」
ざわ、とまた空気が揺れた。この大陸で、王朝は百年もてば長い。
「秘訣は単純です。王は、政治をしなかった」
「それは、王と呼べるのか」
ゼクスだった。柱の脇の椅子に、座ったまま控えていた。右胸の包帯はまだ取れていない。それなのに書類仕事はもう再開していると聞く。回復が早いんじゃない。休み方を知らないんだ。
「呼べます、殿下。むしろ、それでしか続かない」
俺は一歩前に出た。
「権威と、権力を分けるんです。民に祈られ、国の象徴として立つ者がひとり。税と軍と外交、嫌われ役の実務を引き受ける者が別にいる。崇敬は女王に、決定は宰相に。ひとつに重ねない」
「回りくどい仕組みだな。なぜ分ける」
「殿下なら、もうお気づきでしょう」
ゼクスは黙った。分かっていて訊く人だ。だから俺も、全員に聞こえるように言った。
「悪魔は、王に入りました。なぜ王だったのか。この国では、祈られる人と決める人が、一人に重なっていたからです。一人を乗っ取れば、国がまるごと手に入る。的が、ひとつに結ばれていた」
俺は玉座と、その横の空席を指した。
「的を二つに割る。象徴を乗っ取っても軍は動かせない。宰相を乗っ取っても、民が見ているのは象徴です。これは統治の知恵であると同時に、二度と王が乗っ取られないための備えです」
謁見の間が冷えた。俺を「不届きな余所者」と見ていた重臣たちの目が変わる。ゼクスは椅子の手すりを握ったまま、まっすぐ俺を見ていた。
長い沈黙を破ったのは、フローラだった。
「その島国は、今も」
「続いています。俺の知る限りは」
王女はしばらく床を見ていた。それから顔を上げて、父ではなく、兄を見た。
「お兄様が、引き受けてくださるなら」
ゼクスの返事は、すぐには来なかった。
◇
即位の朝、ゼクスは鏡の前で宰相の礼服に袖を通した。右胸の傷が引き攣れて、着るだけで汗が滲んだ。
母が死んだあの日から父は別人になり、妹は「呪いの姫」になった。要塞の村を捨て、スラムを切り捨て、それを合理と呼んだ。凍っていたのだと、今なら分かる。
化け物になった父の爪が、この胸を裂いた日も。爪は、心臓のわずか手前で逸れた。とどめが刺されるのを、悪魔の中に最後まで残っていた父が、許さなかった。
即位の式典で、フローラは王冠を受けた。ゼクスは妹の前に膝をつき、忠誠を誓った。
「お兄様」
宣誓のあと、フローラが小声で言った。式次第にない言葉だった。
「母上が亡くなってから、初めてお兄様とまともに話した気がします」
「……即位式でする話か」
「だって、これを逃したら、お兄様はまた執務室に籠もるでしょう」
ゼクスは答えなかった。ただ、手に、少しだけ力がこもった。
祈る妹と、嫌われ役の兄。十六年こじれた兄妹は、和解の抱擁ひとつ交わさないまま、国の背骨として組み直された。それで十分だった。この兄妹には、たぶんそれが正しい距離だった。
◇
前の王が亡くなったのは、即位式から三日後の朝だった。
その前の晩、王は俺を病床に呼んでいた。呼ばれる理由に心当たりがなくて、柄にもなく緊張して行った。
「今日はフローラ十七歳の誕生日。そして妃が死んだ日だ」
王は、前置きなしにそう言った。
「あれが余に入り込んだのは。心に開いた穴とは、よく言ったものだ。穴があれば、入ってくるものがある」
「……はい」
「十六年、余は穴の底から見ておった。村が焼けるのを。息子の心が凍るのを。娘が死者の名を書き続けるのを。見ていることしか、できなんだ」
返す言葉がなかった。慰めは埃だ。テラスの下で学んだばかりだった。
「ゼン殿。そなたの島国の王は、退位したあと何をする」
不意の質問だった。少し考えて、正直に答えた。
「歌を詠んだり、魚の研究をしたり。まあ、好きに生きるようです」
王は、ひび割れた声で少しだけ笑った。本当に、少しだけ。
「よい国だな」
「はい、そう思います」
「我々は、この地を大陸などと呼んでおるが、本当はただの島だと、賢いそなたは知っておろう」
「はい、気づいておりました」
「そなたの島国のような国に、わが国を導いてくれぬか」
「善処いたします」
それが、俺の交わした最後の会話になった。
翌朝、王は眠ったまま逝った。苦しんだ様子はなかったと、看取った侍医が言った。清算を終えて、国が平らかになって、ようやく許されたんだろう。十六年待たせた人のところへ行くことを。
葬儀の鐘は、終戦の鐘より長く鳴った。誰が決めたわけでもない。鳴らす側が、勝手にそうした。




