第116話 ふたりの女
歓声が、遠ざかっていく。
城門の外も中庭も、生き残った連中の声で膨れあがっている。誰かの名を呼ぶ声、泣き笑い、鎧を叩く音。耳が痛いくらいだったはずなのに、いつからか、それがひどく遠かった。テラスの真下、俺の立っている辺りだけ、音が薄い。
王城のテラス。見上げるほど高いその場所で、ふたりの女の周りだけ、世界から切り取られたような静けさのポケットができていた。陽は傾き、崩れた城壁の向こうが茜に染まっている。光は長く伸びて、彼女たちの足元で交わった。
俺は、テラスのすぐ下で、一歩も動けずにいた。
あそこは、俺の言葉が立ち入っていい場所じゃない。慰めも、仲裁も、ましてや正義の理屈も、今のふたりにとってはただの埃だ。なぜか、強くそう思った。
いつのまにか、テラスを見上げるようにして、大きな人垣ができていた。
剣を下ろした王国兵が、肩で息をしながら。子供を抱えた母親が、杖を突いている老人が、じっと上空のふたりを見つめていた。何が始まるのか誰も知らないくせに、足だけは止めていた。
エレーヌが、ゆっくりとイルミナの前へ歩み出た。
カラン、と乾いた音を立てて、樫の杖がテラスの石床に転がる。何度も炎を呼び出したその杖が、ただの木の棒のように跳ねた。支えを失った体が、崩れるように、膝をついた。膝小僧が石に当たる鈍い音が、静けさの中でやけに大きく響き、真下にいる俺の耳にまで届く。
言い訳はしなかった。逃げもしなかった。
それから、喉を晒すように、まっすぐ顔を上げた。吹き出た、ひたいの汗。それでも目は逸らさない。
「罰を与えてください」
声はよく通った。長いあいだこの瞬間を待っていた者の、静かすぎる声だった。風に乗って、テラスの下の中庭、人垣の最後尾まで届く。
「あなたの村を焼いたのは、わたし。二千の命を灰にしたのは、わたし。命令がどうとか、悪魔がどうとか、関係ない。あの炎を放ったのは、この手」
差し出された両手が、逆光の中でかすかに開く。長年の杖の握りだこで白く変色している。その手が、微かに震えているのを、俺は見逃さなかった。
イルミナは、動かなかった。
黒の仮面の奥は、何も読めない。村を地上に落ちた太陽で焼かれた日から、彼女は一度も素顔を見せなかった。復讐の象徴として、魔王の顔として。
一生ぶんの憎しみが、そこにあった。あの日から、たぶんこの女を殺すためだけに、生きてきた。眠るたびにきのこ雲の夢を見て、炭になった親子の夢を見て、起きるたびに名前を刻んで。その相手が今、自分から首を差し出している。手を伸ばせば、届く。指一本で終わる。
彼女の手が、ゆっくりと持ち上がった。
俺は、息を止めた。声も、出せなかった。止める権利なんて、俺にはない。あそこは彼女の戦場だ。
その指が、エレーヌの喉の手前で止まる。
止まったまま、震えていた。指先が白くなるほど力がこもって、それでも、最後の数寸が、どうしても縮まらない。殺すための手ではない。何かを確かめるための、迷子の手のように。
時間は、引き伸ばされていた。遠くの歓声が、波のように引いていく。
エレーヌは、目を閉じなかった。差し出した喉を、そのままに、ただ次の瞬間を待っている。罰でも、赦しでも、どちらでも受け入れる顔だった。
イルミナの肩が、大きく上下する。一度、二度。仮面の下から漏れる息が、少しずつ、嗚咽に近づいていく。
やがて、イルミナの指から、力が抜けた。
持ち上がった手は、エレーヌの喉を、素通りした。
そして、その頬に、そっと触れた。煤で汚れた頬に、指先が触れる。
「……もう、いい」
仮面の下から、絞り出すような声だった。何年も喉の奥に詰まっていたものが、ようやく外に出た声。
「あなたを赦すんじゃない。二千人は赦されない。一人だって、還ってこない」
頬に触れた指が、震える。
「……でも、わたしはもう、あの日に縛られない。あなたを憎むのは、やめる。あの人たちのことは、わたしが覚えている。あなたと、二人で」
エレーヌの目が、見開かれた。
差し出したのは首だったのに、返ってきたのは、刃じゃなかった。
赦しでも、なかった。ただ、二人の女が、同じ二千人の死を、同じだけの重さで抱えている。その重さを、半分こにしようと言われた。それだけだ。罰より重く、赦しより痛い、生きて背負えという宣告だった。
エレーヌの顔が、ぐしゃりと崩れた。膝をついたまま声を殺して、泣いていた。肩が小刻みに揺れ、喉から絞り出される嗚咽だけが、テラスから切れ切れに降ってきた。
イルミナも膝を折った。崩れたエレーヌと同じ高さに。ぎこちなく、でも確かに、その背中へそっと腕を回した。長いあいだ憎んできた相手を、抱きしめるように。
二つの体が、同じ嗚咽で小さく揺れていた。夕陽が、二人の影を一つにして長く伸ばす。
俺は、ようやく一歩を踏み出した。
テラスの真下、見上げる位置まで歩み寄り、ふたりをただ見つめた。
「イルミナ」
静かに呼んだ。前世のあの頃から、異世界に落ちて今日まで、ずっと使い続けてきた「イルさん」という安全な名前を、はじめて捨てて。
テラスの下からの声だったが、今の静けさなら、必ず届く確信があった。
「もう、いいんだ」
イルミナの指が、顔の横へ上がった。
カチリ、と小さな金具が外れる音。
テラスの下にいる俺の耳にまで、それがはっきりと聞こえるほど、世界は静まり返っていた。
村が焼かれたあの夜から、世間にはけっして晒さなかった顔。何千もの目が見守るなか、テラスの上で、はじめて、人々の前で、開かれる。
人垣を、静けさのさざ波が渡っていった。
隠してきた顔は、泣き崩れた一人の女の顔だった。恐ろしい魔王とは真逆な顔。
だが――それは他でもない、魔王城で見たイルミナの顔だった。
高くて細部まではっきりと見えなくとも、涙に濡れたその肩の震えだけで、今の彼女の素顔が、痛いほど伝わってきた。
「これが」
涙のなかで、イルミナが言う。テラスの下へと向けられたその声は震え、途切れ途切れだった。
「これが、わたしの顔だ」
エレーヌは、その顔を、まっすぐに見ていた。逸らさずに。たぶん、それだけが、いまの彼女にできる、たった一つの償いだった。涙で濡れた顔を、記憶に刻むこと。
テラスを見上げていた人垣のあちこちで、膝をつく者がいた。魔族が、人間が、獣人が。仮面の下にあったのが、自分たちと何ひとつ変わらない、ただ泣き濡れた一つの顔だと知って、立っていられなくなったみたいに。誰かが剣を地面に置き、誰かが兜を脱いだ。金属音が静かに連鎖する。
歓声は、まだ遠くで鳴っている。
巨大な炎で始まった戦だった。その終わりに立ち会って、後年まで覚えていたのは、大層な光景のことより、ふたりの女と、馬鹿みたいに喉が渇いていたことだった。




