第115話 届く声
白い光が、ゆっくりと引いていった。
残ったのは、静けさだった。
あれほど大気を焼いていた咆哮も、剣戟も、悲鳴も、誰かが世界の音量を絞ったみたいに消えている。耳の奥で、自分の鼓動だけがやけに大きい。
俺は、包帯の下の右目に手をやった。痛みはとうにない。ただ、ここにあったはずのものが無い、というこの感じが、戦場の静けさによく似ていた。
広場の中央に、老人が一人、崩れている。
ついさっきまで、太陽を背負った化け物だったものだ。今は痩せこけ、豪奢なはずの王衣は裂けて、肩から落ちている。
その傍らに、ゼクスが伏していた。
右胸が、鎧ごと抉れている。裂け目から血が石畳の溝を伝い、黒い筋になって広がっていた。胸は、かすかに上下している。
「殿下!担架だ、早く!」
衛兵が外套を引きちぎって傷へ押し当てる。布はすぐに赤を吸った。もう一人が脈を探り、声を張る。
「まだ息がある!医務棟へ運べ!」
数人がかりで、粗末な担架に乗せる。力を失った腕が縁から垂れ、点々と血の跡を残しながら、王子は人垣の向こうへ運ばれていった。
俺は、見送ることしかできなかった。傷を塞ぐ術も、命を繋ぐ手も、持っていない。
倒れた老王には、誰も手を伸ばさなかった。
二人の兵が、剣を半端に構えたまま、じりじりと間合いを詰める。だが、そこにいるのはもう化け物ではない。痩せて息の浅い、ただの老人だ。刺すべきか、抱き起こすべきか。答えがないまま、兵たちは足を止めた。
少し離れて、イルミナが膝をついている。荒れ地の一撃と聖剣への注入で魔力を使い果たしたのだろう。仮面の奥は、読めない。
塔の上ではエレーヌが杖を突き、ゆっくりと階段を降り始めていた。
レオンは、聖剣を提げたまま立ち尽くしている。
そしてその周りに数千の人間がいた。王国軍も、連合軍も。砕けた石塔から砂がさらさらと落ち、風にちぎれた軍旗が地を這っていた。
誰も動かない。
戦いは止まっている。けれど、終わってはいない。あと一歩、誰かが叫べば、この静けさは元の硬直状態へ戻る。
俺の手には、剣がない。魔法もない。
あるのは、この拡声器だけだ。
いいだろう。口だけの勇者だ。それなら、口で終わらせてやる。
届くかどうかは分からない。それでも、他に何も持っていない。
命一杯、息を吸って、口元へ持ち上げた。
「聞いてくれ」
自分の声が、石畳を這って広がっていく。
「十六年前、この国の王は妃を亡くした。その日から王の口を借りていたのは、たった一匹の悪魔だ。村を焼けと命じた声も、お前たちの息子を戦場へ送り出した声も、全部そいつのものだった。人も、魔族も、獣人も。お前たち全員が、同じ一匹に殺し合わされてきただけだ。敵なんて、最初からどこにもいなかった」
俺は拡声器を下ろし、片手をまっすぐ、広場の中央へ向けた。
崩れ落ちた、痩せた老人を。
最前列の若い兵士が、剣を握ったまま老人を見つめていた。眉が寄り口が半分開く。それから何かが崩れるように、その顔から力が抜けていった。
レオンが、聖剣をわずかに持ち上げた。その目が、老王から、膝をついた仮面の女へ移る。
「レオン」
静かに、名を呼んだ。
「イリアを死なせたバーサーカーも、あの悪魔が作った。魔族じゃない。イルミナでもない」
レオンの喉が、上下した。握っていた柄から力が抜け、剣先がゆっくりと地に触れる。向ける先を失った憎しみが、肩から抜けていくのが見えた。
それで、十分だった。
俺はもう一度、拡声器を口へ運んだ。
「両軍とも、誰一人、欠けていない。争いは始まらなかった」
兵たちが、互いの顔を見回した。隣の戦友を。さっきまで殺し合っていた相手を。荒れ地の爆発は、誰一人殺していない。イルミナが、そう撃ったからだ。
最初に、誰かが剣を取り落とした。
カラン、と乾いた音が跳ねる。それが合図のように、二本目が落ち、三本目が落ちた。膝から崩れる音。武器を投げ出す音。
そして、群衆が湧いた。
歓声だった。
勝利の雄たけびじゃない。鎧の男が、隣の男の肩を掴んで泣いている。敵も味方もなく、抱き合っている。崩れたテラスの上では、ノクトが両手を突き上げ、煤だらけの顔をくしゃに笑わせていた。
勝ったからじゃない。生きている。全員、生きている。もう、戦わなくていい。それが腹の底に落ちた人間の、こらえきれず溢れた声だった。
俺は、少しだけぼやけた視界でそれを見ていた。片目だと滲んでいるのか溢れているのか、自分でもよくわからない。
歓声は、まだ熱を持っていた。だが、歓声だけでは明日は止まらない。今ここで、縫っておく。
「ガラン!」
血まみれの獣人が、振り返った。
「獣人たちを頼む。お前の声なら、通る」
「言われるまでもねえ」
ガランは、もう走り出していた。
「イルミナ」
仮面の女が、ゆっくりと顔を上げる。
「魔族を頼めるか。お前にしか、できない」
答えはなかった。代わりに、震える膝に手をつき、立ち上がる。魔力の尽きた体で背筋を伸ばし、仮面の奥から、頷く気配が確かに返ってきた。
三つの種族が、同じ石畳の上に並び始めていた。人間が、魔族が、獣人が。ついさっきまで、互いの血で濡らしていた地面の上で。
ふと、足元で気配が動いた。
崩れた老王が、薄く目を開けていた。濁りは消え、ただ疲れきった人間の目だった。その視線がゆっくりと辺りをさまよい、人垣の向こうへ運ばれていく担架を見つける。石畳に点々と残る、赤い跡を。自分の手が斬りつけた、息子の血を。
老王の顔が、ぐしゃりと歪んだ。声にならないまま、震える手が、遠ざかる息子へ伸びかけて、届かず石畳に落ちる。
十六年。その重さを、彼は今、初めて丸ごと抱えていた。
俺は、何も言わなかった。言うべきことは、この親子が自分たちで見つける。それまでの時間は、もうある。
歓声の中で、ふと振り返る。
沈みかけた陽が、戦場を赤く染めていた。その光の向こう、塔から降りてきたエレーヌが、立ち止まっている。
その正面に、イルミナがいた。
魔王城以来、初めて、この二人がまっすぐに向き合っている。
夕風が、イルミナの髪を揺らした。
仮面は――まだ、外れていない。




