第114話 渾身の一撃
黒い爪が、頂点で止まった。
どす黒い影が、レオンの頭上に垂直に伸びている。落ちてくる。誰の目にも、そう見えた。
その横っ面で、火花が弾けた。
バンッ!
小石ほどの何かが宙を裂き、黒い頬骨にめり込んで炸裂した。白い閃光が視界を焼き、轟音が鼓膜を殴る。石畳が震えた。化け物は首をのけぞらせ、振り下ろされるはずだった爪が目標を見失って、虚空を掻く。焦げた毛の匂いが、熱風に乗って広場へ流れた。
石畳の裂け目から、埃まみれの小さな影が一つ、飛び出していた。
「よそ見してんじゃねえぞ、化けモン!」
ノクトだった。
息は上がり、頬は煤で真っ黒だ。いつの間に登ったのか、崩れた王城のテラスの上、ちょうどレオンの真後ろに陣取っている。腰の革袋へ手を突っ込み、指先で二つ目を握った。
ノクトはコントロールに絶対の自信がある。あとは思いきり振りかぶって、投げるだけだ。
バン! バン!
二発、三発。至近で炸裂した小瓶が、黒い皮膚に火柱を咲かせる。衝撃で鱗粉めいた黒い靄が剥がれ、悲鳴とも唸りともつかない音が、喉の奥から漏れた。
あれは、昨夜のことだ。
新星商会の地下工房で、ランプの芯が短くなるまで、ミレナは一睡もしなかった。ノクトがエレーヌから分けてもらった赤い小石、あの爆発石を借りては、ルーペ越しに飽きもせず覗き込んでいた。
彼女の魔力は、戦場には向かない。せいぜい指先で火花を散らせる程度の、ささやかな熱だ。
なら、別のやり方で勝負すればいい。
魔力を帯びた砂利を入れ、調合した火薬と混ぜ、衝撃で誘爆するよう瓶へ詰める。仕組みそのものは、たいして難しくない。難しくないぶん、しくじる余地も少なかった。
夜が明けるころ、作業台には小瓶が十個、行儀よく並んでいた。エレーヌの原石にだって、引けを取るものか。
革袋をノクトの胸へ押しつけたとき、彼女は赤く火傷した指先を見せて、ふっと笑った。
「あたしは前に出られないからさ。これ、いざというとき、あんたが投げてよ。肩はいいんだろ?」
四発目が、化け物の顎を下から跳ね上げた。
濁った片目が、初めてレオンから逸れる。ギロリと、新しい獲物を探して泳いだ。ちょこまかと動く、小さな人間の影を。
「ノクト、退け!」
レオンの叫びより、影が割り込むほうが速かった。
ガランだ。大盾を構えたまま全身でぶつかり、振り下ろされる腕を真っ向から受け止める。ゴォン、と鐘を叩いたような音が響いた。アダマンタイトの盾面が陽を跳ね返し、戦場が一瞬、白く明滅する。
化け物がよろめいた。代わりにガランの膝が石畳へめり込み、肩の筋が悲鳴を上げる。
「小僧、よくやった」
「うっせえ、当然だろ!」
悪態をつきながら、ノクトは柱の陰へ転がり込んだ。革袋の底をまさぐる。残りは六つ。掌に残る火薬のざらつきが、妙に心強い。
◇
レオンの掌の中で、聖剣が生き物のように脈打っていた。
青い光と、赤い光。二筋の螺旋が柄から刃へ、刃から柄へと駆け巡り、互いを追いかけながら溶け合っていく。イルミナの祈りの冷たさ。エレーヌの願いの熱さ。混ざるはずのない二つが剣身の芯でぶつかり、やがて乳白色の濁りに変わっていった。
はじめは心臓と同じ拍だった鼓動が、少しずつ速くなる。ドクン、ドクン、ドクドクドク。汗で滑る柄を、レオンは両手で握り直した。根元から刃先へ、白い熱が昇ってくる。赤でも青でもない、その先にある色。金属が軋むような高い共鳴音が、耳の奥で鳴った。
ゼンの拡声器から、声が割り込む。
「レオン、まだだ! まだ満ちきってない!」
「焦るな。お前の番が来るまで、もう少しだけ持たせろ!」
ガランの息は、とうに限界を超えていた。斬っても、斬っても、傷口は黒い泡を立てて瞬時に塞がる。手応えのない刃ほど、腕を重くするものはない。それでも盾を構え直す。一歩、また一歩。動きは確実に鈍り、吐く息に血の味が混じっていた。
「ガラン、あと少し! あと三秒だ!」
ガランは答えない。歯を食いしばって、前へ出る。
その三秒を、自分の骨と肉で埋めるために。
爪を盾の縁で逸らし、体ごと吹き飛ばされ、石畳を滑りながら立ち上がり、また間合いを潰す。
そのとき、聖剣が鳴った。
今までとは、違う音だった。渇きが満たされた、澄んだ音。チィン、と鈴を振るような、世界の芯を叩くような。白い光が刃の目から溢れ、レオンの腕を、肩を、全身を包み込んでいく。震えは消えていた。重さも、熱さも、痛みも、何もかも光に溶けていた。
「レオン、行けぇ!」
ゼンの一声。それで十分だった。
ガランが咆哮を上げ、大盾を抱えたまま横へ跳ぶ。化け物の胸元が、がら空きになる。
レオンは息を吸った。肺いっぱいに、光ごと吸い込むように。
「ブレードスラッシュッ!」
満身の力で、刃を振り下ろした。
白い光が、滝になって落ちた。
轟音はない。布を引き裂くような、静かな音が一つ。刃は肉を狙わなかった。骨も、鱗も、通り過ぎていく。狙うのは、その奥だ。十六年、人の心の隙間に巣くい、戦を焚きつけ、父に子を殺させ、王に民を踏みにじらせてきた──黒く澱んだ、核だけ。
手応えはなかった。代わりに、根の腐りきった大樹を根元から断つ感触が、柄を伝って腕へ届いた。
化け物が、声にならない声を上げた。人でも、獣でもない。世界の裂け目から漏れる風のような、悲鳴だった。
光の通った跡から、黒い靄が噴き出す。肉に絡みついていた黒が、剥がれ、ほどけ、千切れて空へ舞い上がった。陽に晒された闇のように、白い光に触れた端からジュッと音を立てて蒸発していく。太古からこの地に潜んでいたものが、音もなく、形もなく、散っていった。
風が、吹き抜ける。
黒い靄が消えたあと、そこに立っていたのは化け物ではなかった。
聖剣の白い残光の中に、痩せ細った一人の老人がいた。豪奢なはずの王衣は裂け、肩からずり落ちている。あの巨躯を支えていた力は、もうどこにもない。国王はゆっくりと、糸の切れた操り人形のように膝から崩れ落ちた。
その顔に浮かんでいたのは、長く重い悪夢からようやく醒めた者の、こわばった、それでも確かな安らぎだった。
広場は、しんと静まり返っていた。
白い光の中で崩れていく、たった一人の老いた人間を、誰もが、ただ見つめていた。




