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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第7章 王都決戦

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第113話 聖剣

 その腕は、たしかに一度だけ止まった。

 息子へ振り下ろされかけた爪が、宙で小刻みに震える。父親の心が、最後の力で握り止めていた。けれど蝋燭の芯が燃え尽きるときのように、その揺らぎはふっと細り、消えた。

 宙で痙攣していた化け物の腕から、すっと力が抜ける。肌に戻りかけていた人の温もりが、ふたたび黒へ飲み込まれていく。片目の奥に滲んでいた悲しみも、水に落ちた一滴の墨みたいに広がって、消えた。あとに残ったのは、獲物だけを映す冷たい獣の目だった。


「くそっ……まだ、そこにいるんだろ!」


 誰にも届かない叫びだった。倒れたゼクスを背中に庇って、レオンは聖剣を抜く。柄を握る指が、自分でも嫌になるほど震えていた。


 勝てたためしがない。孤児院でも、ラスの街でも、あの魔王城でも。

 この化け物に剣は通じない。骨の髄まで、そう刻みつけられている。それでも、退けなかった。背中にはゼクスがいる。眼下の広場には、逃げ場をなくした民が固まっていた。石畳の割れ目から、子供の目がじっとこちらを見ている。勇者と呼ばれてしまった以上、ここで引くわけにはいかなかった。


 爪が振り下ろされる。風を裂く音は、いつも一拍遅れて届いた。受ける。弾く。半歩、退がる。受け止めた衝撃で前腕が痺れ、踵が石を削った。刃の先は確かに黒い肌を裂く。けれど裂けた肉はすぐに泡立って、傷口が口を閉じるように塞がっていく。

 勝てない。わかっている。あと一秒だけ持たせれば、その一秒が、誰かの息に変わるはずだ。

 そのとき、頭の上で風が唸った。遠くで鳴る笛のような音が、みるみる頭蓋を揺らす轟きに変わる。陽が翳った。見上げた先、空を割って影が落ちてくる。

 翼ではない。誰かを両腕に抱え、青白い魔力を彗星の尾みたいに引きながら、城門めがけてまっすぐ降りてくる。


 魔王イルミナ。


 その腕に抱えられていたのは、煤で汚れた毛並みの巨躯だった。肩には、古い裂傷。けれどその背中は、どんな城壁よりも頼もしく見えた。

 イルミナは城門の上段へ風のように降り立つと、抱えた男を化け物の正面へ放り落とす。


 ドシンッ!


 石畳が、腹の底まで鳴った。着地と同時に大盾が地面を叩く。アダマンタイトの大楯が陽を撥ね返し、戦場をまるごと映し込んだ。その奥で、獣人の戦士が低く唸る。


 ガランだ。


 レオンは目を疑った。喉が、ひゅっと鳴って詰まる。袂を分けたはずの男と、人類の敵であるはずの魔王が、同じ石畳の上に並んで立っている。


「ガラン……なぜ、ここに」

「問答は後だ」


 ガランは前しか見ていなかった。牙を食いしばり、鼻先で汗が光っている。


「ここは俺に任せろ。お前は、お前にしかできねえことをやれ」


 短い言葉に、重さがこもっていた。

 次の瞬間、城じゅうの空気が震えた。先代の魔王が遺した拡声器から、ゼンの声が降ってくる。


「よく聞け! その剣は、魔王を斬るための剣じゃない!」


 広場がざわめいた。兵士が剣先を下げ、民が顔を上げる。


「人の心に巣くった悪魔を、宿主を殺さずに祓う。そのためだけに鍛えられた刃だ! 先代の魔王が、そう書き遺している!」


 塀の外で睨み合っていた連合軍も、王国軍も、ぴたりと動きを止めた。何年も流れ続けた戦の意味が、いま、白日の下でひっくり返っていく。数千の視線が、レオンの手元へ集まった。

 聖剣が、かすかに鳴った。金属の音ではない。胸の奥で一度崩れ落ちたものが、別のかたちでもう一度立ち上がる。そんな音だった。


「レオン! それがその剣の、本当の使い方だ。力を貸してくれ!」


 レオンは刃を掲げていた。震えはまだ残っている。けれど、恐怖だけの震えではなかった。

 イルミナが片手をかざした。指先から青い光が糸を引いて、聖剣へ流れ込んでくる。祈りに似た、冷たい魔力だった。

 だが、その光が途中で細った。

 見れば、イルミナの膝が折れかけている。唇の端に、赤いものが滲んでいた。さっき荒地で放った、あの威嚇の爆発。あれで根こそぎ持っていかれたらしい。


「……足りない」


 絞り出すような声だった。聖剣の芯が、渇いたまま鳴っている。その渇きが、柄を握るレオンの掌にまで伝わってきた。


 イルミナが、塔を仰ぐ。

「そこの魔女! あなたの炎を貸して!」


 塔の上で、エレーヌは息を呑んだ。杖が、やけに重い。胸の銀のペンダントが、体温を吸って熱を持っている。『焼け』そう命じられて、拒んだ手だ。断ったときの熱が、まだ指先に残っていた。


 迷いは、一瞬だった。


「……持っていって!」


 叫びと同時に、塔から赤い光がほとばしる。怒りでも、憎しみでもない。ただ守りたいという思いだけで練り上げた炎が、風を巻いて、まっすぐ聖剣へ飛んだ。

 青と、赤。二筋の光が螺旋を描いて、刃へ吸い込まれていく。聖剣が、心臓のように脈を打ちはじめた。熱く、規則正しく。レオンの腕に、意志を持った重さが戻ってくる。


 そこからは、ゼンの独壇場だった。


「ガラン、右へ流せ! イルミナから引き離せ!」

「エレーヌ、絞るな! 注ぎ続けろ!」

「イルミナ、呼吸を合わせて。その細さでいい!」


 ゼンに、剣も魔法もない。あるのは声だけだ。かつて暴竜討伐で、前衛と後衛を一本の線に束ねた、あの声。


 ガランが咆えた。大盾を叩きつけ、化け物の爪を真正面から受け止める。アダマンタイトには傷ひとつつかない。けれど盾の奥で腕が軋み、足が一寸ずつ後ろへ削られていく。踏み込んで、脇腹へ渾身の一撃。黒い肉が裂け、濁った血が噴き出した。その傷も、見ている間に泡立って塞がる。


 何度斬っても同じだった。倒せない。力では、倒せない。それでもガランは退かなかった。爪を逸らし、牙で喉笛に食らいつき、弾き飛ばされてもまた前へ出る。倒すためじゃない。刃が満ちるまでの時間を、その身ひとつで稼ぐために振るっている。


 だが、際限なく傷の塞がる相手に、ガランの息は確実に上がっていった。腕が重い。盾を構え直す動きが、わずかに鈍る。視界の端が、白く明滅した。それでも耳の中の声だけを頼りに、足を動かし続ける。


 化け物に、疲れはない。ガランには、ある。その差が、牙を剥いた。


 振り下ろした盾が、コンマ一秒、遅れた。筋肉が悲鳴を上げ、タイミングがずれる。その隙を、化け物は見逃さなかった。黒い爪が盾の縁をかすめ、ガードを内側から弾き上げる。巨躯が大きく泳いで、喉から低い呻きが漏れた。


 がら空きになった、その向こう。濁った片目が、次の獲物を捉える。

 光を満たしている最中の、レオンを。

 黒い爪が、高々と振り上がった。

 風圧で髪が逆立ち、陽が、影に呑まれた。

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