第112話 凍った心の底
荷車の上から、俺は見ていた。
化け物の爪が、ゼクスの喉元めがけて振り下ろされる。鉄を引っ掻くような嫌な風切り音が、一拍遅れて届いた。
ゼクスが咄嗟に上体を捻る。化け物との間合いは、もう消えていた。突き出した右の掌に、淡い光が灯りかける。白く、温かな聖なる光、祈りにも似たそれが指の隙間からこぼれ、じわりと明るさを増していく。
驚きはなかった。
化け物が真っ先に牙を剥いた相手が、よりにもよってゼクスだったこと。そうなるよう盤を組んだのは、ほかでもない俺自身だ。衆目の前で王が暴走し、王子がそれを祓う。民の記憶に「浄化」の絵を刻みつけるための、危険な舞台装置。
悪魔は、剣でも炎でも止められない。宿主ごと焼き殺さずに“それ”だけを引き剥がせるのは、『光』だけだ。俺はその光景を二度見ている。
一度目はラスの街。ゼッドの体から這い出した“それ”を、ゼクスの掌から放たれた聖なる光が、跡形もなく消し去ったとき。
二度目は魔王城。イリアが自分の命と引き換えに、ヴォルドの中の“それ”を祓ったとき。彼女から溢れた光は、確実に闇を溶かした。
イリアは、もういない。
今この広場で同じ光を灯せる人間は、ゼクスだけだった。
衆人の真ん中で化け物を皮の外へ引きずり出し、王子の光で仕留める。それが、俺の賭けたプランBだった。
だが、化け物もまた、知っていた。
自分を滅ぼせる唯一の天敵が、すぐ手の届くところに立っていることを。
光が形をなすより、爪のほうが速かった。
間に合わない。俺が叫ぶより早く、鉤爪はゼクスの胸を抉っていた。
甲高い音が、広場の空気を裂いた。
鋼の鎧が爪を受け、軋みを上げながら、その切っ先をわずかに逸らす。火花が散り、金属の粉が白い光に混じった。だが、受けきれてはいない。裂けた継ぎ目から、右胸を斜めに走る三本の爪痕が覗き、見る間に血があふれ出す。温かい血が胸甲の内側を伝い、革帯を濡らし、石畳に黒い染みを広げていく。
鎧が芯を逸らしたぶん、急所はかろうじて外れている。それでも、立っていられる傷じゃなかった。ゼクスの膝が折れた。灯りかけた光は、こぼれた水みたいに散って、指の間から音もなく消えた。
頭上で、化け物の腕がもう一度、ゆっくりと振り上がる。
今度は、逸らすものがない。喉笛をひと掻きで断つための、とどめの一撃だ。化け物の腕の筋肉が膨れ、黒い血管がどくどくと脈打つ。
広場の数千が、息を止めた。
ついさっきまで王だった化け物が、今まさに、実の息子を引き裂こうとしている。誰も声を上げられない。逃げることすら忘れて、ただ見上げている。荷車の陰では、祈っていた老婆が両手で口を覆い、子どもが母親の服を握ったまま固まっていた。風が止み、旗のはためきすら消えた。
その爪が、止まった。
振り下ろされる寸前で。
化け物の腕が宙で小刻みに震え、凍りついたように動かなくなる。化け物の血管が破裂寸前まで膨らみ、化け物の体の奥で、何かが必死にもがいていた。獣の咆哮の底から、別の鼓動が聞こえる。
塗り潰されたはずの、人間の心。
十六年。悪魔の闇の底に押し込められ、凍りついていたものが、肉体の軋みに引きずられて、無理やり浮かび上がってくる。
妻を亡くしたあの夜から、父と子の間には、ずっと薄い氷が張っていた。言葉は減り、目は合わなくなり、残ったのは玉座と臣下のあいだほどの距離だけ。憎んでいたわけじゃない。ただ、どう手を伸ばせばいいのか、分からなくなっていた。触れれば壊れそうで、ただ黙ってきた。
その同じ手が、今、たった一人の息子を裂こうとしている。
化け物の喉から、言葉にならない呻きが漏れた。獣の唸りに、人の嗚咽が混ざった、歪な音。口の端から黒い唾液が垂れ、震える爪先が、ゼクスの喉からわずか一寸のところで止まっている。悪魔の力に抗う肉体が、ミシリと悲鳴を上げた。骨が軋み、肩の筋がちぎれそうに引きつる。
その喉から、もう一度、声が押し出された。今度は呻きじゃない。掠れて途切れて、それでも、紛れもなく王の声だった。
「……長くは、もたん」
化け物の唇が、わななきながら言葉を継ぐ。目尻に、涙とも血ともつかない雫が滲んだ。
「早く……息子を、救ってくれ」
その数秒を、レオンは見逃さなかった。
一度も勝てたことのない化け物だった。背すじを悪寒が這い上がり、逃げろ、と本能が喚いている。闇の重さに足が竦む。
それでも今度は、その足が前に出た。
聖剣を抜くより先に、身体が弾かれたように動いていた。崩れ落ちたゼクスを片腕で抱え込み、自分の背を盾にして、化け物との間へ割って入る。風圧でマントがはためき、砂埃が舞い上がった。
とどめの爪は、ついに振り下ろされなかった。化け物の腕は、王の意思に縛られたまま、宙で震えるばかりだ。
レオンの腕の中で、ゼクスがうっすらと目を開けた。
霞む視界の先に、自分を殺しそこねたまま固まった化け物がいる。黒く塗り潰されたはずの片目が、泣き出す寸前の子どものように、頼りなく細められていた。化け物の輪郭の奥に父がいた。
震える爪。振り下ろせない腕。
ずっと、父に疎まれていると思っていた。母が死んだあの日から、自分を見る父の目は、いつも凍っていた。なのに今、その凍った目の底から、傷だらけの何かが、必死にこちらへ這い上がろうとしている。十六年、ただの一度も伸びてこなかった手が、今さらのように震えながら伸びかけている。
ゼクスの目の奥で、長く張りついていた氷が、音もなく、わずかに溶けた。
何か言おうとして、唇が動く。だが、声にはならなかった。流れすぎた血が、力を奪っていく。視界が白く滲み、遠ざかる。レオンの腕の温もりだけが、最後に残った。
ゼクスの意識は、そこで途切れた。
荷車の上で、俺は奥歯を噛みしめた。
ゼクスが倒れ、あの光は、もう放たれない。
プランBは完全に潰れてしまった。
父親の心が稼いだこの抵抗も、長くはもたない。現に、爪の震えはもう収まりかけている。底から這い上がった人間の心を、塗り潰された闇が、ふたたび呑み込もうとしていた。隙は、一度きり。次に振り下ろされる爪を、止められる者はもういない。
迷っている暇は、なかった。
懐からトランシーバーを引き抜く。金属の冷たさが掌に食い込んだ。
送信ボタンを押し込み、口元へ引き寄せる。城壁の外で、連合軍の最前列に立つ、たった一人に声を届ける。
「イルさん!」
雑音の向こうで、息を呑む気配がした。一拍の沈黙のあと、風を切るような呼吸音。
「プランCだ。大至急たのむ!」
応えは、短く、そして力強かった。
「了解!!」
その一言を合図に、城壁の外で、青白い魔力の光がふくれ上がる。大気を裂いて昇る光柱が、広場の石畳を青く染めた。
残された手は、もう一つきり。
今から、動き出す。




