第111話 正体
盤面が、王の手から滑り落ちた。
この一瞬を、ずっと待っていた。
身を潜めていた新星商会の軒先から、表へ飛び出す。昼の光が、布で右目を覆った俺の顔を容赦なく照らし出した。見つかれば、それで終わりだ。衛兵の輪に囲まれたら、もう何もできない。
それでも、今しかなかった。
人混みを肩で割って、広場の隅に乗り捨てられた荷車へよじ登る。メガホンを口に押し当て、肺の底まで息を吸い込んだ。布の下が、汗でじっとりと重い。
そして、広場じゅうの空気を震わせて叫んだ。
「待てぇっ!!」
数千の祈りが、びくりと止まった。
宙で合わさりかけた手が固まり、唱えかけた言葉が途中で千切れる。
城門の上の王も、塔の上のエレーヌも、門前にずらりと並んだ衛兵も。広場じゅうの視線が声のしたほうへ、荷車の上の俺ひとりへ、いっせいに突き刺さった。
城門の上段で、ゼクスが手すりに身を乗り出した。眉間に皺を刻み、風に乗って届いた大音声に舌打ちする。
「何だ、この声は……」
見下ろした荷車の上。そこに立つ男の顔を認めて、ゼクスの目がわずかに細まった。
「ゼン、か」
冷えた声が、石壁に跳ね返る。
届くはずのない距離だった。だが先代の魔王が遺したあの筒は、ただの拡声器じゃない。俺の声は広場を越え、連合軍と対峙する王国軍の陣まで届いていく。
荷車のそばでは、パンを抱えた老婆が口を開けたまま固まり、肩車された子どもが泣きやんで俺を指さした。
「魔王は、対話を求めた!」
声を、広場の隅々まで叩きつける。
「日暮れまで待つと言った。卓を挟んで話し合おうと、向こうから手を差し出したんだ。その手を握り返すどころか叩き落として、今まさに、武器も持たない民をまとめて焼き払おうとしてる。それをやったのは、いったい誰だ!!」
ざわ、と人の波が揺れた。
兵が顔を見合わせる。記録を取っていた文官の手から、帳面が滑り落ちた。
誰もが、たった今この目で見たばかりだった。塔の上の魔導士が杖を下ろし、それでもなお王が「焼き払え」と命じた、あの光景を。
塔の上で、エレーヌは胸元の銀のペンダントを握りしめていた。
杖を握っていた指先に、まだ熱が残っている。じんと痺れるそれを持て余したまま、彼女もまた、荷車の上の男を見つめていた。
声を、一段低く落とす。
喉が焼けるように痛い。布の奥で、とうに光を失ったはずの右目が、何かを思い出そうとするみたいに疼いた。
「教えてやる。あそこに突っ立ってる王はな……」
ひと呼吸、間を置いた。
広場のざわめきが、潮の引くように遠ざかっていく。
「悪魔だ!」
しん、と静まり返った。
「追放された男が舞い戻って、何を吠える。悪魔だと? 笑わせるな」
次期国王のひと言で、張り詰めていた空気が、ゆるんで嘲りに変わった。
「悪魔ぁ?」「追放された口だけ勇者の寝言だろ」「証拠もないくせに」
ゼクスの冷笑に背を押されて、笑い声が波のように広がっていく。
わかっている。
信じさせる気なんて、はなからない。
布の下の右目は、もう何も映さない。人の中身を覗き見るあの力は、とっくに失った。あの王の中にいる悪魔とやらも、本当はこれっぽっちも見えちゃいない。
それでも俺は、笑うゼクスには目もくれず、城門の上の王だけをまっすぐ指さした。
指先が、わずかに震えている。
「王よ。俺のこの目には、見えてるぞ。あんたの中に巣くった、薄汚ねえ悪魔がな」
これは、群衆に向けた言葉じゃない。
たった一人、王の中にいる“それ”だけに突きつけた、言葉だ。
一度だけ、見たことがある。
ラスの街で、ゼッドの体に巣くっていた、同じ“それ”を。俺が“見えた”と気づいた、あの瞬間。あれは宿主の体をかなぐり捨て、バーサーカーへと膨れ上がった。
見抜かれることを、何より嫌う。見られたと悟った途端、隠れ場所を捨てて暴れ出す。
この目は、もう何も映さない。
それでも、“見えている”と思い込ませることさえ、できれば。
頼む。
喰いついてくれ。
城門の上の王は、答えなかった。
いや。
答えたのは、王じゃなかった。
「……見えると、申したか」
王の口から漏れたのは、王の声じゃない。
低く掠れて、男とも女とも、年寄りとも子供ともつかない。井戸の底から這い上がってくるような、芯まで冷えた声だった。
それだけで、広場の嘲りがぴたりと凍りつく。笑っていた兵士の口元が引きつり、帳面を拾おうとした文官の手が止まった。
ゼクスの顔から、すうっと血の気が引いていく。手すりを握る指が、白くなるほど食い込んでいた。
「忌々しい目だ。この儂を見透かすとは……」
王の、いや“それ”の唇が、ぐにゃりと吊り上がる。内側から、笑っている。
「ならばもう、隠れている甲斐もあるまいよ」
王の頭から、黄金の冠がぐらりと傾いだ。
からん、と乾いた音を立てて、石畳の上を転がっていく。その音を追うように、広場の誰もが息を呑んだ。
ゼクスが、思わず半歩あとずさる。鎧の踵が、石をかすかに鳴らした。
次の瞬間だった。
王の体から、黒い靄が噴き出した。
昼の光をぐずぐずと飲み込んでいく、濁った闇。
悲鳴が上がる。最前列の民が将棋倒しに後ろへ崩れ、転びかけた老婆の腕を、隣にいた獣人の青年がとっさに掴んで支えた。
人の形が、内側から膨れ上がっていく。背中が裂け、腕が太く長く伸び、肌が炭みたいに黒く塗りつぶされていく。
見間違えようがなかった。あの異形は、バーサーカー。
仮面を脱いだんじゃない。
脱ぎ捨てたのだ。言葉では分が悪いと悟って、力でねじ伏せるほうへ。
膨れ上がった黒い巨体が、まっさきに牙を剥いた相手は、すぐ隣に立つ、ゼクスだった。
黒い爪が、息子の喉元へ伸びる。
嘲りは、もうどこにもなかった。
ついさっきまで王だったものが、衆人の目の前で化け物に変わっていく。
広場の数千が、城壁の上の兵が、塀の外で睨み合う両軍までが、誰ひとり、その光景から目を逸らせなかった。
俺の目は、相変わらず何ひとつ映しちゃいない。
ただ、追い詰められた“それ”が、自分の皮を脱ぐしかなくなる、そういう盤面を、組み上げただけだ。
膝が笑っている。メガホンを握った手のひらが、汗でぬるりと滑った。
十六年。人と魔族と獣人を縛りつけてきたものの正体が、いま、白昼の下に這い出してくる。
うまくいった、とは思えない。これは、始まりですらない。
城壁の上で、レオンは動けずにいた。
せり上がってくる、黒い異形。
あれを、知っている。嫌というほど知っていた。
あの怪物の前で、自分はいつも何もできなかった。勇者と呼ばれながら、ただの一度も、一度も、勝てたためしがない。
その化け物が、よりにもよって、忠誠を誓ったはずの王の体から這い出してくる。
膝の裏が、すっと冷たくなる。剣を持つ手が、自分の意思とは関係なく震えはじめた。
握りしめる。痛いくらいに、聖剣の柄を握りしめる。
その震えを、止めたかった。




