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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第7章 王都決戦

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第111話 正体

 盤面が、王の手から滑り落ちた。

 この一瞬を、ずっと待っていた。


 身を潜めていた新星商会の軒先から、表へ飛び出す。昼の光が、布で右目を覆った俺の顔を容赦なく照らし出した。見つかれば、それで終わりだ。衛兵の輪に囲まれたら、もう何もできない。

 それでも、今しかなかった。


 人混みを肩で割って、広場の隅に乗り捨てられた荷車へよじ登る。メガホンを口に押し当て、肺の底まで息を吸い込んだ。布の下が、汗でじっとりと重い。


 そして、広場じゅうの空気を震わせて叫んだ。


「待てぇっ!!」


 数千の祈りが、びくりと止まった。

 宙で合わさりかけた手が固まり、唱えかけた言葉が途中で千切れる。

 城門の上の王も、塔の上のエレーヌも、門前にずらりと並んだ衛兵も。広場じゅうの視線が声のしたほうへ、荷車の上の俺ひとりへ、いっせいに突き刺さった。


 城門の上段で、ゼクスが手すりに身を乗り出した。眉間に皺を刻み、風に乗って届いた大音声に舌打ちする。


「何だ、この声は……」


 見下ろした荷車の上。そこに立つ男の顔を認めて、ゼクスの目がわずかに細まった。

「ゼン、か」

 冷えた声が、石壁に跳ね返る。


 届くはずのない距離だった。だが先代の魔王が遺したあの筒は、ただの拡声器じゃない。俺の声は広場を越え、連合軍と対峙する王国軍の陣まで届いていく。

 荷車のそばでは、パンを抱えた老婆が口を開けたまま固まり、肩車された子どもが泣きやんで俺を指さした。


「魔王は、対話を求めた!」

 声を、広場の隅々まで叩きつける。

「日暮れまで待つと言った。卓を挟んで話し合おうと、向こうから手を差し出したんだ。その手を握り返すどころか叩き落として、今まさに、武器も持たない民をまとめて焼き払おうとしてる。それをやったのは、いったい誰だ!!」


 ざわ、と人の波が揺れた。

 兵が顔を見合わせる。記録を取っていた文官の手から、帳面が滑り落ちた。

 誰もが、たった今この目で見たばかりだった。塔の上の魔導士が杖を下ろし、それでもなお王が「焼き払え」と命じた、あの光景を。


 塔の上で、エレーヌは胸元の銀のペンダントを握りしめていた。

 杖を握っていた指先に、まだ熱が残っている。じんと痺れるそれを持て余したまま、彼女もまた、荷車の上の男を見つめていた。


 声を、一段低く落とす。

 喉が焼けるように痛い。布の奥で、とうに光を失ったはずの右目が、何かを思い出そうとするみたいに疼いた。


「教えてやる。あそこに突っ立ってる王はな……」


 ひと呼吸、間を置いた。

 広場のざわめきが、潮の引くように遠ざかっていく。


「悪魔だ!」


 しん、と静まり返った。


「追放された男が舞い戻って、何を吠える。悪魔だと? 笑わせるな」

 次期国王のひと言で、張り詰めていた空気が、ゆるんで嘲りに変わった。


「悪魔ぁ?」「追放された口だけ勇者の寝言だろ」「証拠もないくせに」

 ゼクスの冷笑に背を押されて、笑い声が波のように広がっていく。


 わかっている。

 信じさせる気なんて、はなからない。

 布の下の右目は、もう何も映さない。人の中身を覗き見るあの力は、とっくに失った。あの王の中にいる悪魔とやらも、本当はこれっぽっちも見えちゃいない。

 それでも俺は、笑うゼクスには目もくれず、城門の上の王だけをまっすぐ指さした。

 指先が、わずかに震えている。


「王よ。俺のこの目には、見えてるぞ。あんたの中に巣くった、薄汚ねえ悪魔がな」


 これは、群衆に向けた言葉じゃない。

 たった一人、王の中にいる“それ”だけに突きつけた、言葉だ。

 一度だけ、見たことがある。

 ラスの街で、ゼッドの体に巣くっていた、同じ“それ”を。俺が“見えた”と気づいた、あの瞬間。あれは宿主の体をかなぐり捨て、バーサーカーへと膨れ上がった。

 見抜かれることを、何より嫌う。見られたと悟った途端、隠れ場所を捨てて暴れ出す。


 この目は、もう何も映さない。

 それでも、“見えている”と思い込ませることさえ、できれば。


 頼む。

 喰いついてくれ。


 城門の上の王は、答えなかった。

 いや。

 答えたのは、王じゃなかった。


「……見えると、申したか」


 王の口から漏れたのは、王の声じゃない。

 低く掠れて、男とも女とも、年寄りとも子供ともつかない。井戸の底から這い上がってくるような、芯まで冷えた声だった。

 それだけで、広場の嘲りがぴたりと凍りつく。笑っていた兵士の口元が引きつり、帳面を拾おうとした文官の手が止まった。


 ゼクスの顔から、すうっと血の気が引いていく。手すりを握る指が、白くなるほど食い込んでいた。


「忌々しい目だ。この儂を見透かすとは……」

 王の、いや“それ”の唇が、ぐにゃりと吊り上がる。内側から、笑っている。

「ならばもう、隠れている甲斐もあるまいよ」


 王の頭から、黄金の冠がぐらりと傾いだ。

 からん、と乾いた音を立てて、石畳の上を転がっていく。その音を追うように、広場の誰もが息を呑んだ。

 ゼクスが、思わず半歩あとずさる。鎧の踵が、石をかすかに鳴らした。


 次の瞬間だった。


 王の体から、黒い靄が噴き出した。

 昼の光をぐずぐずと飲み込んでいく、濁った闇。


 悲鳴が上がる。最前列の民が将棋倒しに後ろへ崩れ、転びかけた老婆の腕を、隣にいた獣人の青年がとっさに掴んで支えた。

 人の形が、内側から膨れ上がっていく。背中が裂け、腕が太く長く伸び、肌が炭みたいに黒く塗りつぶされていく。


 見間違えようがなかった。あの異形は、バーサーカー。


 仮面を脱いだんじゃない。

 脱ぎ捨てたのだ。言葉では分が悪いと悟って、力でねじ伏せるほうへ。

 膨れ上がった黒い巨体が、まっさきに牙を剥いた相手は、すぐ隣に立つ、ゼクスだった。

 黒い爪が、息子の喉元へ伸びる。


 嘲りは、もうどこにもなかった。

 ついさっきまで王だったものが、衆人の目の前で化け物に変わっていく。

 広場の数千が、城壁の上の兵が、塀の外で睨み合う両軍までが、誰ひとり、その光景から目を逸らせなかった。


 俺の目は、相変わらず何ひとつ映しちゃいない。

 ただ、追い詰められた“それ”が、自分の皮を脱ぐしかなくなる、そういう盤面を、組み上げただけだ。


 膝が笑っている。メガホンを握った手のひらが、汗でぬるりと滑った。

 十六年。人と魔族と獣人を縛りつけてきたものの正体が、いま、白昼の下に這い出してくる。

 うまくいった、とは思えない。これは、始まりですらない。


 城壁の上で、レオンは動けずにいた。


 せり上がってくる、黒い異形。

 あれを、知っている。嫌というほど知っていた。

 あの怪物の前で、自分はいつも何もできなかった。勇者と呼ばれながら、ただの一度も、一度も、勝てたためしがない。

 その化け物が、よりにもよって、忠誠を誓ったはずの王の体から這い出してくる。


 膝の裏が、すっと冷たくなる。剣を持つ手が、自分の意思とは関係なく震えはじめた。

 握りしめる。痛いくらいに、聖剣の柄を握りしめる。

 その震えを、止めたかった。


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