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口だけ勇者 ~剣も魔法も使えないので、言葉だけで異世界をひっくり返す~  作者: はなたろう
第7章 王都決戦

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第110話 焼けぬ手

「一気に焼き払え」


 国王の声が塔の上まで届いたときには、エレーヌの手はもう杖を握り直していた。

 考えるより先に体が動く。命令が下れば従う。逆らえばもっと多くの人が死ぬ。三年かけて骨の髄まで刻みつけられた、それがエレーヌの掟だった。広域爆破魔法エクスプロージョンを使うまでもない、火炎魔法インフェルノで十分だと冷静に分析した。

 杖の石突きを床に押しつけ、両手で支柱を握りしめる。詠唱はいらない。意識を澄ませるだけで足元に青白い魔法陣が滲み出し、杖の先へと魔力が吸い上げられていく。指先が痺れるほどの熱。耳の奥で大気のきしむ音がした。

 眼下の広場を埋めつくす数千を、まとめてひと呑みにできるだけの力だ。それがもう穂先で渦を巻いている。あとは振り下ろすだけでいい。


 セドナ。

 その名が、また胸の奥でうずいた。


 三年前。北西の街道を守る、ちっぽけな要塞集落だった。百を超える魔物の大群に囲まれ、人々は古い外壁の内側で何日も籠城を続けていた。

 あのときゼクスが下した命令は、たったひとつ。要塞ごと魔物もろとも吹き飛ばせ、村人の救出は不要、というものだった。

 だがエレーヌは、壁の上で手を振る人々を見て、撃てなかった。痩せこけた子ども。泥まみれの手で弓を引く少年兵。助けに来てくれた、と叫ぶその顔の上に、広域爆破魔法を落とすことなど、できるはずもなかった。

 だから命令に背いた。外から魔物だけを削り、村人を逃がそうとした。四人の部下も、文句ひとつ言わずについてきてくれた。

 間に合わなかった。誰も読めなかった第二波が湧き、もろくなった壁が内から食い破られた。雪崩れ込んだ魔物が、村人三十一人と部下四人を、エレーヌの目の前で次々に肉の塊へ変えていった。

 戦いが終わって残ったのは、おびただしい魔物の死骸と、その真ん中で膝をついたまま動けないエレーヌだけ。ローブの下の銀のペンダントは、あの夜還らなかった四人の指輪をつないだ、たったひとつの形見だ。誰ひとりエレーヌを責めなかったことが、何よりもこたえた。

 焼け跡で、ゼクスは静かに言った。

 躊躇は毒だ。お前の良心が人を殺すのだ。次は、躊躇するな。

 命令どおりに撃っていれば、死ぬのは要塞の三十二人だけで済んだ。部下が巻き添えになることもなかった。背いたせいで三十五人が死んだ。

 その日からエレーヌは迷うのをやめた。命じられれば撃つだけの道具になった。そうすれば二度と、自分の甘さで誰かを死なせずに済む。そう信じて、心に蓋をした。


 その鎖を、王国が手放すはずもなかった。

 広域爆破魔法エクスプロージョンは、ひと振りで街ひとつを更地に変える。王国がただひとつ握る最大の切り札だ。そんな力を野に放てるわけがない。たとえ命令に背く駒であろうと、囲い、見張り、手元に置く。それがゼクスのやり方だった。

 だからエレーヌは自由になれず、こうしてまた、焼くための場所へ連れ戻されている。


 だから、撃てばいい。迷いさえしなければそれでいい。

 本当に、そうなのか。


 エレーヌは眼下へと視線を落とした。

 魔物などどこにもいない。押し寄せる波もない。剣も盾も持たない人たちが、ただ手を合わせて祈っているだけだ。子どもがいる。年寄りがいる。誰ひとり、逃げ出そうとはしない。

 その光景に、別の景色が重なった。

 ワイドランド。ロングケープ。

 魔族に占領され、罪なき王国の民が皆殺しにされた。そう聞かされて、エレーヌが王命のまま焼き払った、二つの村だ。

 あのときも、迷いはしなかった。むごい仕打ちを受けた同胞のためだと自分に言い聞かせ、空から二つの太陽を落とした。炎が引いたあと、村のあった場所には、人の形をした炭と、焼けた土の匂いだけが、いつまでも鼻の奥にこびりついた。

 炭になったのは、二千の命。

 そして後になって、知ってしまった。あの村は虐殺などされていなかった。そこは人も魔族も獣人も肩を寄せ合って暮らす、共生の村だったのだと。同胞が殺されたという話は、何もかも、初めから仕組まれた嘘だったのだと。

 エレーヌは嘘に踊らされ、二千の罪なき人々を、この手で灰にした。子どもも、年寄りも、ぜんぶだ。


 ようやく、腑に落ちた。

 人を殺してきたのは、エレーヌの良心なんかじゃない。

 セドナで、救おうと手を伸ばしたことは、罪ではなかった。罪だったのは、その良心を毒だと信じ込まされ、迷う心を取り上げられたこと。言われるまま杖を振るう道具に、成り下がってしまったことのほうだ。

 もし一度でも杖を止めて問い返していたら、あの二千は炭にならずに済んだかもしれない。

 迷わなかったから、二千人を焼けた。心を殺したから、嘘を疑いもしなかった。

 その同じ手で、今また同じことを繰り返せというのか。

 できるはずが、なかった。


 ローブの上から、エレーヌはペンダントを強く握りしめた。

 杖の先では、魔力がまだ放たれる時を待ち続けている。城門の上から王が見下ろしている。広場を埋めた数千も、城を囲む両軍も、誰もが塔の上のエレーヌひとりの手元を見上げていた。

 長い、長い一瞬だった。

 心臓の音が、やけに大きく耳の奥で鳴っている。撃てば、英雄でいられる。背けば、何もかもを失う。それでも、答えはもう出ていた。

 エレーヌは静かに息を吸い、そしてゆっくりと杖を下ろした。

 穂先で渦巻いていた光が、行き場をなくして音もなく散っていく。痺れていた指先から、すうっと熱が引いていった。


「……撃ちません」


 絞り出した声は、みっともないほど震えていた。それでも最後まで言いきった。

 誰かに許されたわけではない。自分の意思で決めたのだ。

 これで自由になれるわけではないことくらい、分かっている。王国はこの力を手放さないだろうし、王命に背いた今日のことで、この先どんな罰が待っているのかも分からない。

 それでも、もうかまわなかった。

 二度と、この手で人は焼かない。

 ワイドランドとロングケープで灰にした、あの二千に誓って。


 杖を下ろした手は、まだ細かく震えていた。しかし、胸のざわめきは収まった。

 このあと何が起きてもかまわない。少なくとも今日この場で、エレーヌの魔法に焼かれて灰になる者は、もうひとりも出さない。


 塔の下が、どよめいた。

 王国がただひとり抱えてきた切り札。最強の手駒。それが王の命令にはっきりと背いたのだ。

 広場の祈りは鎮まるどころか、エレーヌが杖を下ろしたのを見て波のようにふくれあがっていく。やめてくれ、戦をやめてくれ。いくつもの声が重なり、うねりとなって城壁を叩いた。

 城門の上では、ゼクスが信じられないものを見る目で塔を見上げている。三年前に自分の手で掛けた鎖が、今この瞬間に音もなく外れたことへ、気づいているのかどうか。

 その隣で、王の顔から表情がすうっと抜け落ちていった。怒りでも驚きでもない。何ひとつ感情ののっていない、のっぺりとした顔だ。


 最強の刃は、ついに振り下ろされなかった。

 王の手のなかから、盤面がするりと滑り落ちていった。

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