〜序章2... はんぺんのいない世界〜
闇が消えてから、十年が経った。
世界は、確かに平和だった。
空は澄み、畑は実り、
子どもたちは「恐怖」という言葉を知らずに育った。
人々はそれを「当然」だと思っていた。
結界があったことも、
祭壇があったことも、
ましてや――
“はんぺん”という名など、誰も覚えていない。
勇者だけが、覚えていた。
剣を置いた彼は、名もない村に住み、
鍛冶も狩りもせず、
ただ、何かを待つように生きていた。
夜になると、夢を見る。
白く、柔らかく、
触れれば壊れてしまいそうなもの。
夢の中でそれは、いつも同じ言葉を言う。
「……まだ、ここにいるよ」
目覚めると、胸が痛んだ。
理由は、わからない。
わからないはずなのに、涙だけが出た。
十年目の冬、
世界に小さな異変が起き始めた。
闇ではない。
魔物でもない。
人々の心が、少しずつ壊れていった。
怒りやすくなり、
他人の痛みに鈍くなり、
「弱いものは仕方がない」と口にする者が増えた。
誰も、それを異常だとは思わなかった。
勇者だけが、気づいた。
――結界は、闇だけを防いでいたんじゃない。
――世界の“残酷さ”そのものを、受け止めていたんだ。
あの白い存在が、
すべてを引き受けていた。
ある夜、勇者は祭壇跡に立った。
崩れた石の上に、雪が積もっている。
「遅くなって、ごめん」
声に出した瞬間、
胸の奥で、何かが確かに応えた。
「……十年、待ったよ」
声は小さく、
記憶の底から滲み出るようだった。
そこには何もいない。
だが勇者は、ひざまずいた。
「世界は救われた。でも……」
続きの言葉は、言えなかった。
「それでいいんだよ」
声は、優しかった。
あまりにも優しくて、
勇者は初めて理解した。
はんぺんは、消えていなかった。
砕け、散り、
世界中の人の心の奥に、
薄く、薄く、広がっていた。
だから完全には壊れない。
だから、完全にも救われない。
「もう一度、形をくれる?」
勇者は、首を横に振った。
「今度は……一人にしない」
返事はなかった。
だが、雪の上に、
白い跡が、ほんの一瞬だけ残った。
翌年から、世界は少しずつ変わった。
人はまた、他人の痛みに気づき始めた。
理由は、誰にも説明できない。
それでも、確かに何かが戻ってきていた。
軽い名を持った、
重すぎる存在のかけらが。
はんぺんは、もう守らない。
代わりに、
人が、人を守る世界が、
ようやく始まった。




