354 帰る場所を背に、万魔殿へ
お盆休みの方々は、海・川の事故や熱中症に気を付けてください<(_ _)>
魔界でヘルネストと会う約束をした翌朝、俺は夜が明ける前に屋敷を出た。
靄がかかった中庭を静かに歩く。いまだに少し心が揺らぐ自分に、ため息をつく。視線を落とすと、足元に影がかかる。
ふと顔を上げる。斜めに差し込む朝日が、長い影を作っていた。目を細め、その先へ視線を向ける。そこには日の出を背に立つ婚約者たちの姿があった。
「おはようございます、アーク。春休み最後の一日、お気をつけて」
「おはよう、アッくん。あまり無理はしないでね」
「アーたん、おはようにゃ。今日を乗り越えたら、明日からは教師と生徒にゃ。色々と教えてあげるにゃ~」
三人は、俺を見送りに来てくれていた。昨夜は普通に食事をし、何気ない会話を交わしただけだ。それでも何かに気づいていたらしい。
何も聞かず、そっと見守ってくれる三人に笑みが零れる。ようやく本当に覚悟が決まった。
「おはよう。フォルテ、サラ、ミリー。ちょっと出かけてくるよ。必ず戻ってくるから、待ってて」
三人は微笑みながら頷く。俺は胸の中が温かくなり、笑顔を返した。
そして右手をかざし、空間を穿つ。その先には、魔界で最も人界に近い村――ワンストが見えた。
もう一度、彼女たちの顔を一人ひとりしっかりと見る。俺は三人に背を向け、魔界へと大きく踏み出した。
――――――――――――
俺は空間にできた奈落を抜け、魔界の地に降り立つ。乾いた風が頬を撫でる。こちらも朝のようだ。太陽は低く、少し肌寒い。
魔界の門が崩壊しかけたときに、人界と時間が同調したようだ。とはいえ、魔界であることは変わらず、草木は鮮やかさに欠け、生命力は希薄だった。
俺は神気と魔力を束ね、魔神気を練り上げると、周囲に解き放つ。白銀の粒子が大地に降り注ぎ、ゆっくりと沁み込んでいった。
その瞬間、草はぴんと張り、花を咲かせる。痩せ細った木々も幹がわずかに太くなり、みるみる枝を伸ばし、青々とした葉を広げ始める。
サタナルと作り上げた魔神気。今まで戦いのために使っていたが、本来は魔界に生きる者たちに神の力を分け与えるためのものだった。
力強い生命が宿った草原に誘われ、魔界の動物たちが集まってきた。どれも痩せ細り、脇腹には骨が浮かび上がっている。
俺は目を閉じ、歩き出す。いずれ俺の魔神気は消え、元の枯れた草原に戻る。だが、少しでも彼らが安らげることを祈った。
やがて村の入口が見えてきた。石でできた堅牢な門に、ひとりの女が立っていた。艶やかな紫の髪を後ろで一つに束ね、背へ垂らしている。
彼女は魔界に似つかわしくない黒のマーメイドドレスに身を包んでいた。確認するまでもなくヘルネストだ。俺はため息を堪え、歩み寄る。
「待たせたな、ヘルネスト。それとも、ヘスティアか?」
「気にしないでくれ、ルチーフェ。今はベルゼガさ。君を魔界で出迎えるのは、私でありたかった」
妖艶に微笑む姿に足を止める。俺が堕天したとき、彼もついてきた。目的は魔界を統治し、神界に侵攻することだ。
俺はその考えに一切、賛同することはなかった。だが、彼のことを救いたいとは思っていた。男性でも女性でもない体。そのことで彼は苦しんでいた。
我が主には深い考えがあり、そのような業を背負わせたのだと思う。だが、それでも迷い苦しむ彼に、俺は手を差し伸べずにはいられなかった。
「なるほど、分かった。それで、お前が俺と話をするわけか?」
「ふふ、違うよ。デートさ。二人でこの魔界を見て回ろう」
ベルゼガは近づき、強引に俺と腕を組んだ。振り解こうと思ったが、なぜかできず、俺は眉を下げる。
「デートか。……まあ、いい。それで、村に入るのか?」
「いいや、まずは魔界の最奥に向かおう。他のみんなも君に会いたがっている」
彼はそう言って、ぱちんと指を鳴らした。その瞬間、魔界の門を小さくしたような形のゲートが地面からせり出し、静かに開き始める。
そこは人界の光が届かぬ、月夜が支配する地――ベルゼガが統治する領地だった。そして、その奥には万魔殿パンデモニウムが鎮座していた。
俺たちはゲートをくぐり、魔界の最奥に立つ。
空気は冷たく、異常に濃い魔素が漂っている。空を見上げると、星は一つもなく、真っ赤な月と真っ青な月が隣り合わせで浮かんでいた。
薄暗い土地に草木は生えておらず、生き物の気配もない。こんな場所に住めるのは、食べ物を必要としない上位の悪魔だけだ。
息を吸うたびに、心臓の横の魔核が疼く。これは神性体になったときに新たに生じた、魔族のみが持つ魔力を増やす臓器だ。
――堕天したことが、影響しているのかもしれない。
俺は胸元に手を当てる。心臓は正確に鼓動を刻み、その隣で魔核が脈打っていた。
「ふふ、多分、ここの濃い魔素に刺激されて、君の魔核が急激に魔力を作り始めたんじゃないかな」
その言葉に息を呑む。ベルゼガは目を潤ませ、こちらを見つめていた。俺は神性体になったことも、魔核ができたことも、フォルテたちにしか伝えていない。
ベルゼガの腕を振り解き、離れようとする。だが、ぎゅっと握り締められた。
「大丈夫、怖がらないで。メフィストに聞いたんだ。彼は十王との戦いで、君とウリガルの戦いを見ていたから」
つい舌打ちをする。ヘレナに呪いをかけ、その姉であるエリザベートを魔物に造り変えた、魔界最悪の名医。やつとベルゼガが繋がっていたとは――。
鋭く彼を睨みつける。だが、ベルゼガは頬を染めるだけで、視線をそらさない。そして、甘い吐息を漏らし、静かに告げた。
「ふう。実は僕たちも彼らには困っているんだ。君のことを知ったのも、メフィストのコピーの一体を捕獲して尋問したからだ。決して僕は彼らの仲間じゃない」
熱い視線で訴えるベルゼガに、眉をひそめる。嘘はついていない。だが、本当のことをすべて話しているとも思えなかった。
だが、どちらでもいい。彼のペースに巻き込まれることこそ、警戒すべきだ。俺は深く息を吸い込み、気持ちを落ち着ける。
そして、腕を離そうとしないベルゼガを連れたまま、パンデモニウムに向けて歩き出した。
暑い中、読んでくださり感謝です(//Д//)
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