353 宵の明星に誓うもの
俺はヘルネストと別れ、アドニスとシロと一緒に街へ戻った。空から降りてきた俺たちに大勢の人だかりができたが、俺には気にする余裕がなかった。
すぐにサラから教えてもらったレストランを探して街中を散策する。時間が経つにつれて、人の気配はさらに増えていった。
アドニスとシロは気になるようで、たまに後ろを振り返る。だが、俺は明日のヘルネストとの約束が頭から離れず、ただまっすぐ前だけを向いて歩いた。
やがて目的の店が見えてきた。これで少しは落ち着けると、安堵の息を吐く。中に入ると、笑顔で店員が迎えてくれた。
だが、足元のシロを見た途端、彼女は眉を曇らせる。
「すいません、当店はペット同伴のお客様はお断りしております」
申し訳なさそうに告げる店員に、笑顔で首を横に振って店を出た。扉を開くと、大勢の女性が立っていた。その光景に息を呑む。
「ねぇ、もしかして気づいてなかったの?」
袖を引っ張るアドニスに視線を移す。彼は少し困った表情を浮かべていた。
「えっと、ごめん。ちょっと考えごとしていて、後ろの様子を気にする余裕がなかったかも……」
指先で頬を掻き、苦笑いを浮かべる。その途端、小さな悲鳴が上がる。もう慣れたが、今日だけは少し煩わしかった。俺はため息をつき、手をかざす。
「場所を変えよう」
その瞬間、空間が捲れ、別の場所へとつながる。シロを抱きかかえ、アドニスの手を握ると、俺はその中へ入った。
眼下に広がる光景に目を細める。隣ではアドニスとシロが目を輝かせていた。ここは東洋連合国の帝都トウケイ。フォルテから教えてもらった秘密の場所だ。
帝都にある小高い丘。その上に築かれた展望台。それは彼女の母、ホノカ様が内緒で作ったものだ。修行で疲れたときや、悩んだときに訪れていたと、フォルテは言っていた。
(……やっぱり、ほっとするな。前世の記憶が影響しているせいかもしれないけど)
江戸の街並みを思い出し、口元が綻ぶ。後ろではアドニスとシロが、桜の花びらが舞う広場で、笑いながら駆け回っていた。
再び眼下を見下ろせば、その街並みは巨大な生き物の背中のようだった。大通りの商家は重厚な瓦屋根を連ね、鈍色の肌が春の陽光を跳ね返している。
そして、その大通りを彩る暖簾や幟は、遠目には色とりどりの花びらが揺れているようにも見えた。機能美に満ちた無機質な学園都市とは対照的だった。
だからこそ、落ち着いた。
わずかな時間だけでも、ヘルネストとの約束を忘れることができた。俺は思い切り息を吸い込み、アドニスとシロに声をかける。
「二人とも、ここは東洋連合国だ。少しの時間だけど、観光をしようか!」
その声に二人が何度も大きく頷く。着物姿ではないが、異国の人間も少なからずいる。それに目立っても、ここにいるのはあと半日ほどだ。
俺は疑似飛翔魔法を展開すると、二人を乗せて一気に展望台から街へと飛び立った。
――――――――――――
東洋連合国の観光を終え、俺たちは屋敷に戻ってきた。お土産に買った金平糖や煎餅を、出迎えてくれたヘンリさんに手渡し、ひとり部屋へ戻った。
机に向かい、窓辺を眺める。夕日が差し込み、部屋の中を赤く染めながら静寂が満ちていく。自然と、ヘルネストとの約束を思い出した。
(やつは、いったいあの村で何を話すつもりだ。いや、何か企んでいるのかもしれない)
ふと、エジェイルの顔がよぎる。天使だったころの俺が、初めて言葉を交わし、心を通わせた魔族の少女。
彼女は悪魔と獣人の混血――魔人だった。遥か昔に魔界へ迷い込んだ人間は意外に多い。その中で、生き残り、環境に適応した者が魔人だ。
彼らは悪魔にも影響を与えた。悲しみや憎しみしか知らなかった悪魔に、慈しみや優しさを教えた。もちろん、それを拒む者や、人間を誑かすために利用する者もいた。
それでも、悪魔が完全な悪の存在ではないことの証明だった。そのことを教えてくれたのが、エジェイルだった。
感傷に浸りすぎた。
気づけば、夜の帳は下りつつあった。俺は深く長く息を吐き出す。堕天したことに後悔はないが、我が主である神への愛は変わらない。
気持ちの整理がついたわけではない。ただ、覚悟は決まった。ヘルネストがどんな行動に出ようが、エジェイルたちを守り、我が主も守る。
俺は机の引き出しからナナシを取り出し、窓辺に向ける。そのとき、柄から透明の刃が伸び、切っ先が閃いた。
その先へ視線を向けると、漆黒の空に宵の明星がきらりと光っていた。
暑い中、読んでくださり感謝です(//Д//)
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