342 母は蹴って、恋を奪う
私たちはレーヨンの町にベアモンドを残し、王都ワストに向かった。とはいっても、私の魔法陣で転移しただけだ。一瞬で街の正門近くに到着した。
門の前には多くの人たちが並び、検問を受けている。私は見覚えのある男を見つけ、声をかけた。
「ウーガル、久しぶりにゃ。武闘大会以来にゃ」
彼は龍覇王虎武術大会で私と戦った相手だ。狼族の獣人で、巨大な戦斧の使い手。今もその背中には、扇状の銀刃が鋭い輝きを放っていた。
今ではその腕を買われ、我が国の兵士として働いてもらっている。すでに百人隊を率いているはずだが――。
「どうして、百人隊の隊長のお前がここにいるにゃ?」
「はい。初心を忘れないように、たまに現場に来ているんです」
その言葉に目を細める。どうやら心も随分と鍛えられたらしい。以前のような傲慢さは微塵も感じられない。
「ふっ、殊勝な心がけだにゃ。兄上たちの教育の賜物にゃ」
「い、いえ。あの大会で、ミザリー殿下にコテンパンにされ、自分が弱いと分かりました。あれからです、真面目に生きようと決意したのは――」
遠くを見つめ、噛みしめるように告げるウーガル。私はその背中を叩き、笑いながら言い放つ。
「何を言ってるにゃ。あのときは、軽く遊んだだけにゃ。大げさにゃ」
彼は背中を押さえて咳き込みだした。本当に大げさなやつだ。私がさらに叩こうとしたとき、そっと手を掴まれる。
「ミリー、もう止めてあげよう。ウーガルさん、泣いているよ。それに戦斧にもひびが入っている」
アーたんは悲しげな表情を浮かべ、首を横に振る。意味が分からず、ウーガルに視線を移す。彼は部下たちに背中を擦られながら、泣いていた。
「だ、大丈夫ですよ、隊長。ミザリー殿下の遊び相手ができるなんて。それだけで凄いことです。俺は尊敬します!」
なかなか人望が厚いようだ。我が国もいい人材を得た。ガリュウ兄上が王になっても安泰だ。私は大きく頷き、そのまま町へと歩き出した。
――――――――――――
久しぶりに帰ってきた故郷を眺め、笑みが零れる。ここはベストレア獣王国の王都ワスト。多くの獣人たちが暮らし、活気に溢れていた。
東洋連合国をはじめ、様々な国と積極的に交易を行う我が国。その中心に位置するワストには、珍しい品々が数多く集まり、売られている。
その街並みを見て、私はさらに気分が高揚した。そのとき、近くの屋台から香ばしく食欲を誘う匂いが漂ってくる。私は後ろを歩くアーたんに笑顔を向けた。
「アーたん、あれを買ってほしいにゃ。一緒に食べるにゃ!」
彼は苦笑いを浮かべながらも、小さく頷き、私が指さした屋台へと歩いていく。その後ろ姿を鼻歌まじりに眺めていると、リリーナさんに声をかけられた。
「本当にあんたは、カナリアにそっくりね。急いで家に帰らなくていいの?」
「別にいいにゃ。正直に言えば、ガリュウ兄上にお祝いを伝えれば、それでいいにゃ。できれば、母上には会いたくないにゃ」
あんな非常識な女に会う気はなかった。どうせ家にはいない。自由奔放な人だ。どこかの国で冒険でもしているはずだ。
青空を見上げながら、母の姿を思い出す。
だが、最後に会ったのは五年前。顔ももう、はっきりとは思い出せない。娘の入学式にも卒業式にも来なかった母親を思い、私は肩をすくめた。
「できれば、もう会わなくていいにゃ。私はアーたんさえいれば、いいにゃ。むしろ母上は不要にゃ――ぶおっ!」
その瞬間、背中に衝撃が走った。私は逆らうことなく前へ飛び出し、転がりながら身を起こすと、両手を握り締めて構えた。
油断していたとはいえ、私の背後を取り、攻撃を当てるとは、ただ者ではない。背中に冷たい汗が伝う。頬についた泥を拭い、前を見据える。
目に飛び込んできた女性の姿に、私は息を呑んだ。
そこにはオレンジ色の髪を後ろに束ね、金色の瞳を獰猛に光らせる私の母――カナリアが、両腕を胸の前に組み、立っていた。
「貴様は何者だ!」
目を見開き、立ち尽くす私に向かって、母上が叫んだ。意味が分からず、言葉を失う。そんな私に、彼女はさらに言葉を続ける。
「何か言ったらどうだ!」
鋭い眼差しを向ける母上。とても娘に向けるものではない。いや、この女は私のことを覚えていない――そう思った瞬間、私は大声で叫んだ。
「ふざけるな! お前は誰かも分からない相手を、いきなり蹴ったのか!」
「ふん、当然だ。貴様から私を侮蔑するような気配を感じた。理由はそれだけで十分だ!」
自信満々に人差し指を向けて答える母上。彼女に常識を求めたのが間違いだった。私は肩を落とし、会話が成立しないことを悟る。
そっと拳を握り締め、腰を落とす。やはり最後に頼りになるのは、アーたんと自分の拳だけだ。静かに殺気を纏い、左足を引いた。
ぴんと張り詰めた空気が漂う。様子を見守っていた住民たちは口を閉じ、沈黙が満ちる。もはや母娘という関係に意味はなかった。
母上――いや、カナリアも拳を突き出し、腰を沈めた。先手必勝だ。私は足に力を込め、一気に駆け出した。
「あの~、すいません。どなたか知りませんが、ここは人通りも多いので、場所を変えませんか」
申し訳なさそうにカナリアへ語りかけるアーたんの姿が、瞳に映る。このままでは、私たちの戦いに巻き込まれてしまう。だが、勢いを止めることはできない。
(――このままではまずい!)
思わず目を閉じそうになる。その瞬間、カナリアが目の前から消えた。
「わかったにゃ、場所を変えるにゃ。君は誰かにゃ? かわいいにゃ♪」
言葉を失う。そこには満面の笑みで頷き、アーたんに抱きつくカナリアの姿があった。私は二人の横を通り過ぎ、そのまま見物していた群衆の中へ突っ込んだ。
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