339 匂いで駆け出す恋心
私が中庭でシロとサンドロに稽古をつけていると、わずかにアーたんの匂いが鼻をかすめた。
「……もうすぐ帰ってくるにゃ」
「えっ、誰がですか。ミザリー様?」
私の拳を躱しながら、サンドロが尋ねる。ギフト『千里眼』のおかげで、わずかに未来が視えるようになり、こいつもかなり強くなった。
弟子の成長に、自然と口角が上がる。その隙を突き、サンドロは短剣の力を発動して姿を消した。獣耳と人の耳、その四つの耳を立てるが、足音を捉えることはできない。
見えないなら、視覚は不要。私は目を閉じ、残る感覚を研ぎ澄ませる。その瞬間、最愛の人の匂いを捉え、走り出した。
背後でドンッとぶつかり合う音が届く。どうやら、挟撃を狙っていたらしい。ちらりと振り返ると、地面に重なり合う白い虎――シロとサンドロが見えた。
私は笑みを漏らし、前を向く。そんなことより、今はアーたんを出迎えるほうが先だ。再び目を閉じ、嗅覚に意識を集中する。
(……右に四歩、前に十歩。そこだ!)
かすかな匂いを捉え、勢いよく飛び出す。すると、眼前の空間が捲れた。笑顔で手を振るアーたんが瞳に映る。私はそのまま、彼の胸に飛び込んだ。
「おかえり、アーたん! 寂しかったにゃ」
彼の胸に顔を埋め、頬ずりをする。ちらりと隣に立つフォルテを見やる。だが、彼女は優しく見つめるだけだった。
その余裕ある態度に眉をひそめる。私はアーたんの胸に鼻を押しつけ、雄の匂いを嗅ぎ取る。まだ、余計なマーキングはされていないようだ。
私は安堵の息を吐き、彼から離れると、二人の姿に目を見開く。珍しい服装だ。たしか東洋連合国の着物だったと思う。
濃紺と深紅――二人とも様になっていた。フォルテは母親が東洋連合国の王女だったから分かるが、アーたんは意外だった。
だが、これほど美しく格好いいなら、どんな服を着ても似合うのは当然だ。できれば、私の前では何も着ないほうがいいが――。
「ミザリー、何かよからぬことを考えていませんでしたか?」
フォルテが半目で睨み、私は口笛を吹いて誤魔化した。すると、サンドロとシロが駆け寄ってきた。
「お帰りなさい、アークさん、フォルテ様。向こうでは、ゆっくりできましたか?」
「ただいま、サンドロ君。ああ、楽しかったよ。あと、これはお土産だ。あとで皆で食べてくれ」
アーたんはサンドロの頭を撫でながら、袖から綺麗な紙包みを渡した。かすかに香ばしい匂いが漂うと、シロが鼻を鳴らしながら顔を上げる。
「ありがとうございます。じゃあ、これはヘンリさんに渡してきますね。おいで、シロ!」
サンドロはシロを連れて屋敷に戻っていく。その背中を見つめていると、アーたんが声をかけた。
「ミリーは、たしか実家に帰るんだったよね。フォルテはもう大丈夫らしいけど、どうする? 俺は今からでも大丈夫だけど」
「そうだにゃ、少しだけ待ってほしいにゃ。どうせなら、サンドロを実家に送り届けたいにゃ。あいつにも休暇をあげるにゃ」
私が親指を立てて答えると、アーたんは笑みを浮かべて頷いた。
「そうだね、たしかに大事なことだ。やっぱり、ミリーは優しいね」
星が煌めくその漆黒の瞳に見つめられ、胸がきゅっと苦しくなる。たった四日間。その間に、アーたんの雰囲気は随分と変わっていた。
優しいのは変わらない。だけど、それだけじゃない。胸の奥まで包み込まれるような慈しみを感じた。
不敬かもしれないが、我が主を思い浮かべてしまう。『真の一体化』が進み、ケビエルと意識が一つになった私の脳裏に、あの偉大なお姿がよぎった。
色々と聞きたいこともあるが、今は早くサンドロを実家に帰し、二人きりになりたい。考え込むのはあとだ。大事な時間を無駄にはできない。
私はアーたんとフォルテを中庭に残し、旅の準備をするため、屋敷へと駆け出した。
――――――――――――
再びサンドロを連れて中庭に戻ると、いつのまにかアーたんは着物から普段着に着替え、フォルテとサラといた。
三人とも和やかに会話を楽しんでいる。その姿に、少しだけ嫉妬を覚える。
「待たせたにゃ、アーたん。すぐに向かうにゃ」
急いでこの場から離れたくなった私は、素早く地面に魔法陣を描く。アドニスにお願いして、サンドロの実家――カラトフの村に座標を刻んでもらっていたのだ。
万物変化魔法は苦手だが、魔力回路の知識や構築には自信がある。それらを駆使して、私は転移の魔法陣を作り上げた。
わずかに魔力を流すと、複雑に組み込まれた紋様が青白く輝き出す。私はアーたんの腕を取り、サンドロを抱き寄せると、魔法陣に飛び乗った。
「じゃあ、行ってくるにゃ。サラ、フォルテ、留守は頼むにゃ!」
その瞬間、青い光の柱が天へと伸び、景色が一転する。一瞬だけ、苦笑いを浮かべて手を振る彼女たちの姿が見えた。
私も笑みを零すが、次の瞬間、目の前にはカラトフの村が広がっていた。無事に転移できたことに安堵の息を吐き、私はアーたんと腕を組んで歩き出した。
何が起きたのか分からず、呆然と立ち尽くしていたサンドロも、慌てて私たちの後を追ってくる。
アドニスとタルロス、そしてサンドロと出会った懐かしい村。私は目を細めてその景色を眺めた。村の入り口には、息子の帰りを待つサンドロの両親が立っていた。
私はアーたんの腕をほどき、追いついたサンドロを脇に抱える。そっと腰を沈め、一気に村へ向かって駆け出した。
一瞬、眉を下げるアーたんが視界の端に映る。これからの四日間は、きっとかけがえのないものになる。そう思えて仕方なかった。
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