338 ご飯が美味しいと言った日
フォルテと過ごす春休みも、今日で最後だ。俺が旅館で支払いを済ませて待っていると、彼女は笑顔で駆け寄ってきた。その手には牡丹色の風呂敷包みがあった。
「おはようございます、アーク。すいません、準備に手間取って」
頭を下げるフォルテ。艶やかな黒髪が朝日を浴びて煌めく。俺は目を細めながら挨拶を返した。
「おはよう、フォルテ。気にしていないよ。それより、今日はどうしようか?」
彼女は形のよい顎に手を当て、考え込む。昨日の今日だ。お互いに予定を考える余裕はなかった。
やがて、フォルテは首を横に振って答えた。
「アークと一緒なら、どこでもいいです。あっ、そうだ! それなら、母の実家を見に行きませんか?」
両手を合わせ、満面の笑みを浮かべる彼女。いつもより感情を表に出すその姿に、目を奪われる。
「どうかしましたか、アーク?」
「いや、何でもないよ」
首を傾げるフォルテに苦笑いを浮かべる。俺は大事そうに抱える彼女の風呂敷包みを受け取り、旅館の玄関へ歩き出した。
外に出ると、目の前に人力車と車夫がいた。その中に見覚えのある顔を見つけ、歩み寄った。
「カナグリさんですよね?」
俺の言葉に、日に焼けた壮年の男性は肩を跳ねさせて振り向く。
「おっ、この前の旦那じゃねえか。今日も乗ってくかい」
威勢のよい声に笑みが零れる。フォルテの実家まで、どのくらい距離があるのか分からない。俺は彼女に視線を移した。
「ええ、お願いします。場所はブヨウ城です」
その言葉に、カナグリさんは一瞬目を剥く。だが、すぐに笑顔になり、大きく頷いた。
「なるほどな、観光か。たしかにあそこは、トウケイきっての名所だ。見ておいたほうがいいな。少し遠いが任せておけ!」
胸を叩き、駆け足で人力車へ戻っていく。その後ろ姿にかつて見た江戸の景色が胸をよぎり、遠くを見つめた。すると、そっと袖を引かれる。
「何を考えていたのですか?」
俺を見つめるフォルテ。その顔は穏やかだった。金とプラチナの瞳は、春の陽光を受けて優しく輝いている。
「……他愛もないことさ」
肩をすくめ、短く答える。彼女もそれ以上は聞かず、二人でトウケイの麗らかな春空を眺めた。やがて、カナグリさんが人力車を引いて戻ってくる。
「待たせた――ってほどじゃねえが、すぐに向かうぜ。さっさと乗りな!」
その言葉に俺たちは微笑み合い、人力車へと乗り込んだ。ふわりと座席が水平に持ち上がると、カナグリさんは颯爽と走り出した。
東風が頬を撫でる。人力車から見る街並みは、昨日とは違って見えた。大勢の人たちが笑い合い、人目もはばからず大声で話している。
学園都市では見られない光景だ。上品ではないが、威勢と活気があって、冒険者の町レーヨンに似ていた。
目を閉じ、全身で風を感じる。そっと指先に何かが触れた。視線を落とすと、フォルテの指先だった。思わず彼女の手を握ってしまう。
慌てて離そうとする俺の手を、フォルテはぎゅっと握り締め、離さなかった。顔を上げると、俺の瞳に恥ずかしそうに、はにかむ彼女が映る。
俺はその笑顔から目が離せなかった。
――――――――――――
ブヨウ城は、前世で見た江戸城に似ていた。だが、装飾は赤が目立ち、石垣の代わりに煉瓦が高く積み上げられていた。
俺たちはブヨウ城を見て回ると、再び昨日の展望台へ戻ってきた。夕暮れの景色も綺麗だったが、昼の和やかな陽気に照らされる街並みも美しかった。
「あそこに、ホノカ様は住んでいたんだね」
「はい。ですが、いつも城を抜け出し、忍びの修行をしたり、町を遊び回ったりしていたらしいです」
遠くに見えるブヨウ城を眺めながら、フォルテが眉を下げる。たしかにホノカ様らしい。俺が笑みを深めると、彼女は牡丹色の風呂敷包みをそっと受け取った。
「今日は、ここでお昼にしましょう」
フォルテは芝生に腰を下ろし、風呂敷を広げた。包まれていたのは赤い箱。彼女は静かにその蓋を開く。
その箱の中には、少し歪な形のおにぎりが並んでいた。その隣には、わずかに焦げ目のついた卵焼きが添えられている。
かすかに眉を上げて視線を向けると、耳まで真っ赤に染めたフォルテが口を開いた。
「……厨房をお借りして、作ってみました」
お米なんて学園都市にはない。ホノカ様に教えてもらったのだろう。きっと、旅館の玄関で言っていた準備とは、このことだったのだと察する。
胸の中に温かなものが広がり、自然と口元が綻ぶ。俺は思わず両手を合わせて呟いた。
「……いただきます」
俺は感謝を込め、おにぎりに手を伸ばして口元へ運ぶ。お米のほのかな甘味が口の中に広がった。自然と目を閉じ、しっかりと味わう。
ひとつを食べ終え、瞼を上げる。フォルテが不安げな表情を浮かべ、こちらを見つめていた。その姿に笑みが零れる。
「美味しいよ、フォルテ。ありがとう」
彼女はほっと息を吐き、自分もおにぎりを手に取って食べ始めた。その姿が愛おしくてたまらない。食べることも忘れて、フォルテを見つめてしまう。
「あの、食べないのですか?」
再び不安げな表情に戻る彼女。俺は首を振り、改めて目の前の箱に手を伸ばした。今はフォルテが作ってくれたこの弁当を、じっくりと噛み締める。
俺たちは昼食を終え、展望台に並んでトウケイの街並みを一望する。今日中には学園へ戻らなければならない。この景色も見納めだ。
沈黙が落ちる。春風が髪をなびかせ、温かな陽光が全身を包み込む。俺は全身でこの国を感じると、そっと眼差しをフォルテへ向ける。
俺たちは視線が重なり、微笑み合う。けれど、すぐに彼女は頬を染めて俯いた。そのとき、風が吹き抜け、桜が舞う。すると、フォルテは顔を上げ、穏やかに告げた。
「……ご飯が美味しいって言ってくれて、嬉しかったです」
その瞬間、飛鳥の影がよぎった。だが、俺は小さく首を横に振る。そして、真っすぐフォルテだけを見つめた。
「フォルテ。君を愛している」
静かに、でも、はっきりと伝える。
そして、そっとフォルテを抱き寄せた。
(……もう迷わない)
俺は桜の花びらが舞い散る中、優しく顔を寄せて、彼女の吐息を奪った。
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