337 重ならぬ面影、深まる愛しさ
母から教えてもらった秘密の展望台。帝都の観光を楽しんだ私たちは、そこを訪れていた。
花の香りを孕んだ柔らかな風が、昼の温かさを攫っていく。涙が止まるまで、私はずっとアークの胸の中に顔を埋めていた。
どれほどの時間が過ぎたのか分からない。ただ、辺りは暗く、空には朧月が浮かび、地面を青白く照らしていた。
私はアークからそっと離れる。目は赤く腫れ、頬は涙で濡れている。まともに彼の顔が見られない。俯いたまま、足元をじっと見つめた。
「ごめん、フォルテ」
アークの声が、少し湿り気を帯びた静寂をしなやかにほぐす。だけど、私は顔を上げることができない。
「俺には、ここではない世界の人間の記憶がある。殺伐とした闇に生きる、冷たい心を持った男の記憶だ。そこで俺は平気で人を騙し、殺めてきた」
なるべく感情を抑えるように、彼はゆっくりと話し出した。私の肩がわずかに跳ねる。
「……そんな人間に、まともな死に方なんてできるはずがなかった。俺は親友と妻に裏切られ、殺された――そう思って生きてきたんだ」
淡々と告げているはずの言葉。なのに、なぜか私には悲しく聞こえた。思わず顔を上げる。そこには目に涙を浮かべるアークがいた。
「けど、違った。妻は命がけで、俺を守ろうとしていたんだ。ずっと勘違いしていた。妻とまともに向き合わず、真実を知ろうともせず、ただ次の人生こそは誰にも裏切られずに生きたいと思っていた」
視線が重なった瞬間、アークの声が震えた。ただ私だけを見つめ、これまで何のために生きてきたのか、絞り出すように告げた。
「皆を助けたい。そう思い込んで、自分を騙してきた。本当は自分のためなんだ。誰にも嫌われたくない。今度は裏切られず、ちゃんと生きたい――そのために皆を、フォルテを利用した」
アークの目から涙が零れる。その漆黒の瞳は濡れ、月明かりを吸い込み、夜の海のように深く澄んで見えた。
彼も苦しんでいた。誰にも正体を告げることなく、己の過去に囚われ、必死に足掻いていた。
私は勘違いしていた。彼は真実を隠していたわけではなかった。誰にも言えなかった――。ただ、それだけだった。
(……本当に不器用な人)
涙を流すアークを見つめる。きっと彼は私に、かつての妻の面影を重ね、その罪を償おうとしていたのだろう。
戸惑いながら手を伸ばすと、私の指先は震えていた。それでも、私はアークの頬を両手で包んだ。
「アーク、聞いてください。私は私です。そして、あなたもあなた。あなたの過去を全部知ったわけじゃありません。けど、今ここで苦しんでいるあなたは、私の知っているアークです」
アークはわずかに目を見開く。そんな彼に笑みを深める。
「誰だって失敗も過ちも犯します。だけど、向き合って、悔やんで、償おうとしているなら……私は、あなたを許せない人だとは思いません」
私はアークを真っすぐ見つめ、心を込めて伝える。
「私はかつての妻じゃない。でも、私もあなたを命がけで守る。アーク、愛しています」
その刹那、月に雲がかかり、辺りは静かな闇に包まれた。私は目を閉じ、そっと唇を重ねた。
そして、私たちは春の夜の中へ溶け合っていった。
◆
薄い襖を透かして、春の陽光が部屋に満ちていた。まどろみの中で目を開ける。すぐ隣には、フォルテの穏やかな寝顔があった。
彼女の目元は腫れていた。きっと俺も同じだろう。そう思い、口元から笑みが零れる。俺たちは展望台から旅館に戻るまで、口を開くことはなかった。
二人とも夕食をとることなく、別々の部屋で、すぐに眠りについた。
だが、いくら目を閉じても睡魔は訪れず、ただ静寂の中、月夜に照らされた青白い天井を見つめるだけだった。
俺は布団から這い出し、襖を開けて中庭を眺める。前世を思い出させる風景に目を細めた。その中央の池には、月光が映し出す庭木の影が静かに揺れていた。
そのとき、静寂を破り、戸を叩く音が響いた。俺は振り返り、ゆっくりと歩み寄ると、引き戸を開いた。
「……こんばんは、アーク」
フォルテが立っていた。まだ目は腫れ、頬は赤く染まっていた。彼女も眠れず、どうしていいのか分からなかったのだろう。
「……こんばんは、フォルテ」
気の利いた言葉を思いつかず、挨拶を返した。俯いたままのフォルテを見つめる。もう妻の面影と重なることはなかった。
ただ、愛しさだけは大きくなっていた。
胸が張り裂けそうになり、そっと手を当てるが、激しく脈打つことはなく、いつもよりも、少しだけ温かく感じた。
「眠れないんです。少しだけ一緒にいても、いいですか?」
俺は笑顔で頷き、そっとフォルテの頭を撫でた。
「俺も眠れなかったんだ」
それだけの言葉に、彼女は笑みを浮かべた。多くを語るより、こうして一緒にいるだけで伝わるものもある――そう思えた。
俺はフォルテを部屋に招き、布団の上に座る。彼女も頬を染め、向き合うように腰を下ろした。互いの視線が重なり、小さく笑い合う。
それからしばらく他愛もない話を交わし、いつのまにか眠ってしまった。
「おはようございます、アーク」
ふと視線を下げる。フォルテはもう起きていた。目元はまだ少し腫れていたが、その笑顔は穏やかだった。
「おはよう、フォルテ」
そう返すと、彼女はくすぐったそうに目を細めた。俺は布団から起き上がり、軽く肩を回す。
「少し散歩してくる。食堂で待ってるよ」
その言葉に、フォルテは布団から顔を出して頷いた。俺は笑みを深め、その場を後にした。
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