333 毒の夜に知る、君の想い
俺はくいっと盃を傾け、口の中に酒を流し込む。すると、かすかに苦味を感じる。
やはり酒に毒は混ざっていた。視線を飛鳥に向ける。けれど、彼女は笑みを崩すことなく、酒を足した。
(……結局、彼女が俺を殺したのか)
毒に侵されて身動きできない俺に、包丁を振り下ろす彼女の顔が浮かぶ。あの氷のような眼差しを思い出し、指先が冷たくなる。
その瞬間、思わず盃を落とす。慌てて拾おうとした俺は、床に倒れ込んだ。
「瞬く間に毒気が回ったか。いささか強く盛りすぎたようだ」
その声に顔を上げると、襖がそっと開く。目の前には、口角を吊り上げながら入ってくる武蔵の姿があった。
(……また、俺は殺されるのか)
まだ毒は回っていない。ただ躓いただけだ。体は動く。せめて一太刀でも報いを受けさせてやろうかと思ったが、飛鳥のことが気になった。
俺は武蔵から彼女へ視線を移す。飛鳥は顔を青ざめ、こちらをじっと見つめていた。そのとき、武蔵が飛鳥に包丁を突きつけた。
「飛鳥、お前が風真に止めを刺せ」
そこで悟る。やはり俺を殺したのは、武蔵と飛鳥だった。彼女とは恋も愛もなかった。それでも情はあった。幸せにしようと思っていた。
自分が、なぜあれほどまでに任務をこなし、里の中で確固たる地位を求めてきたのかようやく思い出した。
――飛鳥のためだ。
いつの間にか手段が目的に変わってしまっていた。任務を優先し、彼女を蔑ろにしていた。殺されても仕方ないかもしれない。ようやく己の愚かさに気づく。
俺は静かに目を閉じ、死を受け入れる。そのとき、飛鳥の声が聞こえた。
「どういうことです、兄上! 風真に何をしたのです」
瞼を上げると、武蔵に詰め寄る彼女の姿が映る。
「どうもこうもない。風真には里のために死んでもらう。こいつが受けた任務はすべて、徳川家に縁がある者を暗殺することだ」
この世を治める徳川家。恨む者も多い。武蔵は、そのような者たちから多額の報酬を受け取り、その任務を俺にさせていた。
「だが、そろそろ潮時だ。このままでは将軍家に俺たちのことがばれてしまう。だから、風真の暴走ということにして、先にこいつの首を差し出す。分かったなら、さっさと殺せ、飛鳥!」
武蔵は冷たく言い放ち、包丁を飛鳥に押し付ける。だが、彼女は目に涙を浮かべ、首を横に振って拒んだ。やつはため息をつき、目を見開く。
次の瞬間、飛鳥の肩が跳ね、体が真っすぐに硬直する。
その姿を見て、俺は思い出した。武蔵が瞳術の使い手だったことを――。
理屈は分からない。だが、やつに睨まれた人間は一時的にその動きを封じられ、意のままに操られる。
飛鳥は、ぎこちなく武蔵から包丁を受け取り、こちらを向いた。その瞳には意志は宿っておらず、ガラス玉のようだった。
まさしく俺を殺したときの目だ。毒は回っておらず、体は動く。だが、ここで抵抗しても意味がないような気がした。
それに飛鳥が俺を少しでも想ってくれていることが分かった。幻でも、それが嬉しかった。俺は静かに目を閉じる。
ゆっくりと近づく気配を感じ、やがて目の前で止まる。
(……いよいよか)
どうせ二度目だ。少しは慣れたはずだ。黙って受け入れよう。そう覚悟を決めたとき、俺の上に誰かが覆いかぶさった。
何が起きたのか分からず、目を開く。そこには、自らの胸に包丁を突き刺した飛鳥の姿があった。
「……よかった、あなたを殺さなくて。ご飯が美味しいって言ってくれて、嬉しかったです。ありがとう、風真」
その瞬間、すべての記憶が蘇る。あのとき、俺は毒で意識が朦朧として忘れていた。彼女は振り上げた包丁を、自らの胸に刺したのだ。
俺が死んだ原因は毒だ。飯も食べずに酒と一緒に飲んだせいだ。彼女は俺を裏切っていなかった。俺の目から涙が溢れ出す。
命を懸けて俺を守ってくれた飛鳥。その気持ちに気づかなかった。最低の人間だ。転生してからも、ずっと彼女のことを分かっていなかった。
俺はゆっくりと起き上がり、飛鳥を抱きしめる。幻でもいい。彼女に伝えたかった。
「飛鳥、ありがとう。君と結婚できて、俺は幸せだった」
その瞬間、彼女は目を開き、微笑んだ。しかし、すぐに瞳を閉じた。彼女の最後の笑顔に胸が張り裂けそうになる。
――だが、俺はそっと彼女を床に寝かせ、立ち上がる。
「ふん、最後まで役立たずだったな、飛鳥」
妹にかける言葉ではなかった。喉の奥から怒りが込み上げ、目の前が真っ赤に染まる。だが、ふと飛鳥の笑顔がよぎり、視界が戻る。
俺はゆっくりと息を吐き出し、武蔵を睨む。やつはカッと目を開き、瞳術をかけようとしていた。
俺は静かに瞼を下げた。いくら優れた瞳術だろうが、見なければいいだけだ。
「馬鹿が、それでどうやって避ける!」
何も見えない。だが、関係なかった。俺は祠の試練を思い出す。視覚以外の感覚を研ぎ澄ませ、武蔵の気配を捉える。
いつの間にか握っていた鎖鎌を横に薙いだ。確かな手応えを感じ、目を開く。そこには首から上を失った武蔵が立っていた。
俺はやつを一瞥し、飛鳥を抱きかかえる。幻だと分かっている。だけど、あいつの傍に、彼女は置いておくことはできなかった。
俺は部屋を後にした。気づけば、そこは祠の中だった。
視線を落とす。足元には三つ目のカラスが、首を断たれ、無残に転がっていた。
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