329 霧の社、馴染みすぎた所作
私たちは人力車を降り、参道を歩いていく。樹齢数百年は経つ杉並木は天を突くほどに高く、陽光を遮って、深々とした静けさを満たしていた。
春なのに湿気を帯びた空気は冷たく、頬を刺す。ぶるっと身震いすると、アークが羽織を脱いで、そっと私の肩にかけた。
「なかなか雰囲気がある場所だね。ここが阿修羅像を祀っていた場所かい?」
霧の隙間からわずかに覗く青空を見つめながら、アークが尋ねる。その横顔には、久しぶりに帰ってきたかのような懐旧の情が滲んでいた。
「はい、母から聞いたので間違いありません。あと、このトガシの社は、母が忍びの修行をした場所でもあります」
アークを見つめながら答える。彼は顔を上げたまま、何も言わず目を閉じた。その姿には、ここがどこなのか、すでに分かっていたような確信めいた雰囲気が漂っていた。
「やはり、そうか」
彼は目を開くことなく呟いた。その瞬間、参道を春とは思えない清冽な風が吹き抜けた。
「……そこで盗み聞きしている人、出てきてくれないか」
彼の言葉に息を呑む。周囲を見渡すが、何の気配も感じない。私は懐に手を差し入れ、神銃アクケルテに触れた。冷たい感触が伝わり、ざわつく気持ちを宥める。
「いやいや、お見事ですな。ただならぬ気配に、様子を見に来ただけだというのに、儂に気づくとは」
不意に霧が晴れ、一人の老人が姿を現した。深い皺の奥に宿る瞳は穏やかで、蓄えられた白髭が隠者の風格を与えている。
私は神銃を抜き、銃口を向ける。だが、アークが手を上げ、それを制した。
「偶然ですよ。殺気も敵意もない貴方を見つけることができたのは」
老人は髭をしごき、じっとアークを見据える。その眼光は鋭く、さきほどまでの好々爺とした雰囲気はなかった。
引き金にかけた指に力が入りそうになる。アークは私に近づき、神銃を下ろさせると、懐から阿修羅像を取り出した。
「俺たちはこれを返しに来ただけです。もし貴方がここの神主なら、受け取ってもらえませんか?」
彼は布に包まれた阿修羅像を取り出し、老人に見せた。その瞬間、老人は膝をつき、深々と頭を下げた。
「これは、まさしく我が社に祀ってあった阿修羅様です。これが盗まれて百年以上が経ちます。まさか儂の代で戻ってくるとは――」
震える声で呟く老人。アークはそっと近づき、老人を立たせると、阿修羅像を布に包み直し、手渡した。
老人の目に涙が浮かぶ。その包みを抱きかかえる姿を見て、アークは満足げに頷き、私の手を握って参道を戻ろうとした。そのとき、声がかかる。
「お待ちください、お二方。もう夜の帳も落ちようとしております。今晩は、こちらにお泊りになってもらえませんか。大したもてなしはできませぬが、阿修羅様を戻してくれた恩人がたに、心ばかりの礼をさせてくだされ」
再び膝をつき、頭を下げる老人に、アークは苦笑いを浮かべる。私はふと顔を上げた。さっきまで透き通っていた青空は、その端から濃密な朱が滲み出していた。
――――――――――――
この社の神主――カンゾウさんに案内された場所は、大きな木造の建物だった。玄関は引き戸で、屋敷の中に入るには履物を脱がなければならなかった。
少し抵抗を覚えて戸惑う。だが、アークはすんなりと脱いで上がると、吸い付くような手つきで草履を綺麗に並べた。あまりにも自然な所作に目をみはる。
「ほう、アーク様はこの国に住まわれていたことがあるご様子ですな」
「……いいえ。昔、読んだ本に東洋連合国の文化や生活について書かれたものがあって、それを覚えていただけですよ、カンゾウさん」
笑顔で嘯くアークに、カンゾウさんも笑みを崩すことなく頷いた。どうやら二人にしか分からない何かがあるようだ。
口元からため息が零れる。私も草履を脱いで上がる。すると女性が現れ、お湯が張った桶を差し出した。どうすればよいか分からない私に、アークが苦笑いを浮かべる。
思わず頬を膨らませて睨んでしまう。アークは軽く謝罪し、女性を下がらせると、私の前で膝をつき、そっと足を握った。
「ちょっと待ってください、アーク。なんのつもりですか!?」
声が上ずる。だけど、アークは笑みを深め、足袋を脱がせ、無言で桶の中に足を導く。そして、優しく足を洗い、桶の縁に掛けてあった白い布で水分を吸い取った。
その間、私の心臓は頭の中に引っ越してきたかのようだった。激しい鼓動が絶え間なく耳の奥で鳴り、思考を塗りつぶしていく。
そんな私のことなど気にした様子もなく、彼はもう片方の足も洗い終え、自分の足も手早く済ませる。やはり、彼はこの国に馴染みすぎている。
まるで、最初からここで生まれ育ったかのように――。
それまで私たちの様子を黙って見守っていたカンゾウさんが、口を開いた。
「……夕飯の準備をしますので、しばらくお部屋でお休みくだされ。念のため、お伺いしますが、部屋は別々でよろしかったか」
「はい、それでお願いします」
私が口を開く前に、アークが答えてしまった。再び頬を膨らませる私に、カンゾウさんは口を押さえ、吹き出すのを堪えていた。
――――――――――――
案内された部屋の前に着く。アークとは隣の部屋だった。彼に視線を向けると、「また、あとで」と告げて部屋へと入っていった。
私は紙の張られた引き戸を開けた。そこには緑色の床が一面に広がり、四角く区切られたその表面には、細かな乾いた草が規則正しく編み込まれていた。
踏み出すと、足裏に板よりも柔らかい不思議な弾力が伝わる。同時に、目が覚めるような青い草の香りが、ふわりと鼻を抜けていった。
ここが母の生まれ故郷。そして、もしかしたらアークも――。私は首を横に振る。彼がカインズ公爵家の人間であることは疑いようがない。
それでも、彼とこの国には関係があるように思えてならなかった。私は床に座り、そっと掌を滑らせる。
指先に伝わるのは、ざらりとしながらも、どこか人肌に近い温もりを含んだ弾力。それは強張っていた私の心に、草の上に寝転んだときのような静寂を思い出させた。
深呼吸をする。青々とした香りが肺を満たし、張り詰めていた神経が、編み目の隙間へとほどけてゆくようだった。
読んでくださり感謝です<(_ _)>
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