325 サファイアの簪と、空の逃避行
ふわりと胸が浮いた瞬間、まだ冷たさの残る春風が、私の頬を掠めた。思わず小さく悲鳴を上げ、腕に力を込めてアッくんの胸元に顔を埋める。
トクン――耳の奥で、アッくんの鼓動が聞こえた。
顔を上げると、青空に目を輝かせ、満面の笑みを浮かべる彼の顔が飛び込んできた。眩しいほどの笑顔に目を細める。
頬が火照り、ちらりと視線を落とす。広場には大勢の人たちがくつろぎ、談笑にいそしんでいた。その中に、こちらを指さし、驚いている人たちもいる。
(そろそろ、ここから離れないと、また目立ってしまうわ)
私は少年のように無邪気に空を飛び回るアッくんに悪いなと思いつつ、声をかけた。
「アッくん、もうそろそろ下ろして。できれば人気がない場所で」
「そうだね、遊び過ぎたかな」
私の言葉に笑顔で頷くアッくん。年相応の姿に、私も笑みを零す。彼は一気に加速し、太陽を目がけて上昇した。
思わず悲鳴を上げる。だが、ふっと体が軽くなる。目を開くと、遥か上空にいた。眼下には小さくなった広場――いや、聖都が広がっている。
その光景に目を見開く。刹那、今度はすごい速さで落ち始めた。突風に髪は乱れ、恐怖で目に涙が滲む。
このままでは地面に激突する――そう思った瞬間、ふわりと重力から解き放たれた。気づくと、人気のない路地裏にいた。
「アッくん、今のは何だったの? 私を怖がらせて、どういうつもり」
ジロリと半目で彼を睨む。アッくんは苦笑いを浮かべ、そっと私を下ろした。
「ごめん、サラ。つい久しぶりの疑似飛行魔法を堪能したくて」
悪びれた様子もなく、満面の笑顔で告げる。私はため息をつき、肩をすくめた。
「まあ、いいわ。それより、ここなら大丈夫ね。確か近くに服飾店があったはずだから、そこに寄ってもいい?」
私は風で乱れた髪を整えながらアッくんに尋ねる。彼は顎に手を当て、しばらく考え込む。
「そうだね、そこは男性の服も扱っているのかな」
その言葉に、すぐ頷く。ここは大聖堂から離れ、各地から巡礼に訪れた人たちを相手に商売をする店が多い。様々な店が立ち並び、多くの商品を扱っている。
私が向かう店も、その中のひとつだ。比較的手ごろな値段の服から高価なものまで、男女関係なく揃っている。
私の話を聞いたアッくんは満足げに頷き、私に店まで連れて行ってほしいと頼んだ。
――――――――――――
「これなんか、どうかな。アッくん」
黒髪に染め、金色の瞳を輝かせるアッくんに声をかける。彼はレーヨンの町で身元を隠すために使っていた、変装用のアクセサリーを身に着けていた。
「すごく似合ってるよ、サラ」
彼は微笑みながら告げる。どれを着ても同じ言葉を返すアッくんに、頬を膨らませる。くるりと背を向け、鏡に映る自分を見つめた。
虹色の瞳に、桃色のウェーブがかかった髪がかかる。私も以前使っていた魔導具で姿を変えていた。
誰も私を『大聖女サラ』だとは気づかない。私は口角を上げ、髪をかきあげると、アッくんの手がすっと伸びる。
「これを付けたら、どうかな」
以前、もらった簪に似ていた。だけど、あれよりも細かな装飾が施され、先端にはサファイアが輝いていた。
「以前、贈ったときはお店で買ったものだけど、これは作ってもらったんだ」
頬を掻き、はにかむアッくん。私はサファイアの簪を受け取り、じっと見る。簪と言ったが、それは二股になっていた。
「これなら、髪をまとめなくても、髪飾りみたいに挟んで使えるかなって思って」
アッくんが金色の瞳を輝かせ、嬉しそうに告げる。一方的だった想いが、結ばれた――こんなことで、本当にそう思えた。
嬉しいはずなのに、涙が出そうになる。私が顔を伏せると、はらりと髪が落ちた。その瞬間、アッくんが私の手から簪を取る。
ふと顔を上げる。目の前には優しく微笑む彼の顔があった。彼はそっと私の髪をかき上げ、サファイアの簪を挿した。
「うん、大丈夫だね。ちゃんと髪留めになってる。すごく似合ってるよ、サラ」
「また、同じことを言ってるよ、もう!」
頬を膨らませ、そっぽを向く。顔が火照り、まともに彼の顔を見ることができない。それに鼓動も激しく胸を打ち、冷静ではいられない。
私は胸を押さえ、しゃがみ込む。背中に温かいものを感じ、ちらりと視線を向けると、心配そうに背中を摩るアッくんが瞳に映る。
「だ、大丈夫だから、アッくん。ヘレナのことを思い出して、急に恐怖が蘇っただけなの」
咄嗟に出た嘘に、彼は深く頷く。そして店員を呼び、籠に積まれた試着済みの服をすべて購入すると告げ、数枚の金貨を手渡した。
「全部、本当に似合っていたんだ。だから、贈らせてほしい」
そう告げて、しゃがみ込んだ私の膝裏に手を入れ、抱きかかえた。お姫様抱っこされた私は耳まで熱くなった。
だけど、アッくんは気にした様子もなく、店員へ今日泊まる宿屋に送るよう頼み、お釣りはチップだと言って、この場を後にする。
店員が慌てて入口の扉を開けると、目の前に大通りが飛び込んできた。そして、そこを行き交う人たちから好奇の視線を向けられる。
「せっかく変装したのに、また目立っちゃったじゃない。バカ」
私は小さく呟く。だけど、アッくんには届かなかった。彼は私を見つめ、微笑むだけだった。
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