323 祈りの檻、解ける鎖
アッくんがナナシを振り下ろした瞬間、私は反射的に目を閉じた。刹那、蒼炎の刃が頬を掠め、地面へと突き刺さった。
ギャッ、ギャァ
動物とも虫とも思えない不快な叫び声が耳を突き、一瞬で消えた。ゆっくりと瞼を上げると、影に浮かぶ山羊の頭蓋骨を貫くナナシが映る。
私はヘレナを抱き寄せ、その影から急いで離れた。アッくんはナナシを引き抜き、すっと私たちを守るように前に出る。
そして、額を穿たれた山羊の頭蓋骨に切っ先を向けた。
「やはりな。一度解放してから、再び憑りつこうとしたな、メフィスト」
その言葉に全身の強張りが一気に解けた。アッくんも気づいていた。ヘレナを襲う邪悪な気配に。
私がヘレナの救済を優先したように、彼はメフィストへの警戒を怠らなかった。だけど、結果は同じだった。
狡猾な悪魔が正当な契約をするはずがなかった。エリザベートを騙し、教団とヘレナに苦しみを与え続け、解放したあと、もう一度地獄へ落とす。
悪魔らしいといえば、それまでだが、ここまで不快なことを思いつくメフィストに吐き気を覚えた。
私は影に浮かぶ山羊の頭蓋骨――メフィストを睨むと、それはゆっくりと盛り上がり、漆黒のマントを纏った怪人へと姿を変えた。
「きしし、さすがです。本当にさすがです、ルチーフェ様。すぐに、即座に私の企みに気づくとは。魔王だっただけはありますね。とてもよく私たち悪魔のことがお分かりだ。理解している。素晴らしい!」
ヘレナを抱きしめる手に力が入る。アッくんは一歩前に出て、ナナシを突き出し、私たちからメフィストを遠ざける。
「こんな短い期間に、二度も貴様に会うとは思わなかったぞ。不愉快だな」
メフィストは頭蓋骨をくるくると回しながら、顎を揺らす。どこまでも人の心をざらつかせる。私は最上級の浄化魔法を展開しようとした――その瞬間。
アッくんがナナシを振り下ろした。音もなく刃はメフィストを通り抜け、沈黙が落ちる。やがてメフィストの頭蓋骨は動きを止める。
彼がナナシを腰に戻すと、メフィストは一瞬で霧散して消え去った。
「魔界の奥でじっとしていろ。次はないぞ」
アッくんは虚空を睨み、吐き捨てた。いつになく感情を表に出す彼を見て、その怒りの大きさを感じる。
そのとき、胸元から声が届く。
「おねえ……ちゃん」
私は我に返り、慌ててヘレナに治癒魔法を施す。金色の粒子が、吸い込まれるように傷口へと溶けていく。
瞬く間に傷は癒え、白く冷たかった肌が生き生きとした血色を取り戻していった。力強い鼓動が胸を打ち、彼女の瞼が僅かに開いた。
――――――――――――
私たちが講堂に戻ると、リュック教皇陛下をはじめ枢機卿や大司祭――教団の幹部が一同に並び、深々と頭を下げて待っていた。
「よくぞ、ヘレナ様を救ってくださいました。ルキフェル様――いや、アーク様、サラ様」
先頭で首を垂れるリュック陛下が感謝を述べた。
どうして私たちがヘレナを救ったことが分かったのか、尋ねようとしたとき、アッくんに抱かれたヘレナが口を開いた。
「……私の中から悪しき影が払われたとき、神託が授けられました。『長き闇を堪え忍んだ忠実なる娘ヘレナ、そして、光を求めし迷える子羊たちに、等しく平穏を約束しよう』――と」
陛下たちは静かに告げるヘレナを見つめ、一斉に頷いた。神託は彼女だけでなく、彼らにも届いたのだろう。
私はヘレナに視線を戻す。彼女は優しく微笑むアッくんに、熱い眼差しを注いでいた。数百年もひとりで苦痛と恐怖に耐えてきた。今だけは目をつぶる。
「理由は分かりました。説明は不要のようですね。リュック陛下、それに皆さん、礼は不要です。お立ちになってください」
一同を見渡して告げるが、誰も立ち上がろうとしない。私としてはエリザベートとの約束は果たした。残り三日は、アッくんとデートを楽しみたいのだが――。
口元からため息が漏れる。私は肩をすくめ、アッくんのほうを向く。その漆黒の瞳には幾万の星が煌めている。吸い込まれそうになるのを堪え、視線を落とす。
「ヘレナ、これを。エリザベートのロザリオよ。あと、彼女からの伝言。『ごめん』って」
彼女の瞳から涙が零れ、頬を伝う。私はそっと拭い、ロザリオを彼女の手にしっかりと握らせた。エリザベートとの約束を思い出す。
ひとつは彼女を救い、ロザリオを渡すこと。もう一つは――。
「お姉ちゃんのバカ……」
ヘレナは呟き、大粒の涙が溢れ出す。拭うことはできない。彼女はアッくんの胸に顔を埋めて泣きじゃくる。
私は彼女の言葉ですべてを悟る。ヘレナは気づいていた。エリザベートが彼女を守るために聖女の座から身を引いたことを。そして、そのことで苦しんでいたことも。
不器用な姉妹。やはり双子だ。互いの気持ちが分かり過ぎた。だから何も言えなかった。――もうひとつの約束は、果たせそうになかった。
私は、いつまでも泣き止まないヘレナを見つめる。
「今日だけは特別よ。私の最愛の人の胸を貸してあげる」
小さく呟き、わずかに頬を膨らませた。そして、心の中で呟く。
(エリザベート、あなたの嘘、妹も気づいていたわよ。約束は果たせなかったけど、いいわよね)
私は視線を上げ、眉を下げてヘレナを見つめるアッくんに目を細めた。ふわりと、白銀の羽が舞った。
アッくんが十二枚の銀翼を広げ、静かに告げた。
「ヘレナ、すまなかった。俺のせいで君たち姉妹を苦しめた。ここで誓う。二度と悪魔たちに手を出させないと――」
このとき初めて、アッくんは口に出した。悪魔たちと戦う覚悟を――私はその背中から目を離せなかった。
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