315 こんにちは、赤ちゃん
目の前に立つミリーの腕の中には、真っ白な猫――いや、虎の赤ちゃんがすやすやと眠っていた。だが、俺は愛くるしいその姿に目を細めることはなかった。
ただただ、混乱する。彼女とは口づけしかしていない。なのに赤ちゃんが生まれた。意味が分からず、ちらりと後ろを振り向き、言葉を失う。
フォルテがホルスターから神銃アクケルテを抜き、サラが白竜の杖を剣へと変えようとしていた。
自然と視線を下げ、ミリーの監視を任せていたセイレーンが潜む影を見つめる。たしかに彼女の気配を感じるが、出てくる様子はなかった。
経緯を説明してほしいが、セイレーンも二人の殺気に怯えているようだ。その気持ちが痛いほど分かる俺は、彼女を責めることはできない。
俺はどうすべきか逡巡する。その間にもフォルテは魔力を展開して魔弾を装填し、サラは白竜の剣を構え、さらに神剣レーヴァテインを召喚しようとしていた。
「ちょっと待ってくれ、二人とも! ミリーとはキスだけだ。それ以上は何もしていない。あのとき、納得してくれたはずだ!」
必死に訴えるが、二人とも冷たい眼差しで俺を見ながら、死刑執行の準備を淡々と進める。怒りが限界を超え、俺の声が届いていない。
その瞬間、ケビエルの顔がよぎる。あの公園の惨劇のときも、彼女が現れて事情を説明してくれた。今回もきっと助けてくれるはずだ。
「ケビエル、出てきてくれ! 本当にこの赤ちゃんは俺の子供なのか!」
俺はミリーに向かって叫ぶ。だが、彼女の中にいるはずのケビエルが現れることはなかった。
それどころか、大通りに面した門前で俺は子供を抱くミリーに向かって、とんでもない発言をしている――。
そのことに気づき、周囲を見渡すと、道を行き交う人たちから、人でなしを見るような冷たい視線を向けられていた。思わず助けを求めるかのように振り返る。
しかし、サラの後ろで臣下の礼をとる聖騎士たちは地面を見つめ、顔を上げることなく、フォルテの隣に立つタルロスは腕を組み、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
そしてフォルテは魔弾の装填を終え、撃鉄をゆっくりと引き、サラは白竜の剣と神剣レーヴァテインを両手に持ち、こちらを見つめる。
もはやこれまでだ。十全の十王――完全なる魔物の王を前にしたときでさえ、感じることはなかった恐怖が心を圧し潰そうとする。
今世でも、妻もとい婚約者に殺されるのか――そう思ったとき、ミリーの背後からアドニスが飛び出した。
「ははは、びっくりした、アーク!? この赤ちゃんはミザリーの子供じゃないよ! ウラガーノドラゴンだよ!」
突然、現れて無邪気に笑い出すアドニス。その姿に目を細める――ことはなかった。ただただ、困惑する。ミリーの腕の中で眠る赤ちゃんは白い虎だ。ドラゴンではない。
首を傾げそうになり、サラとフォルテのことを思い出す。俺は恐る恐る振り返り、安堵の息を吐く。彼女たちもアドニスの言葉に呆気にとられていた。
◆
私は呆然と立ち尽くすアーたんたちを見て、満面の笑みを浮かべた。フォルテの隣に立つタルロスも口角を吊り上げ、アドニスも手を叩いて喜んでいる。
私は悪戯が成功したことに満足しながら、思い返す。
アーたんたちが身重の私を屋敷に残して、ガリュウ兄上の獣王の試練を手伝いに行ったあの日の夜、私はアドニスから真実を告げられた。
「ミザリーの中に新たな命の鼓動は感じないよ。元々、赤ちゃんはできていないんじゃないかな」
その言葉に目を見開く。確かに私は夜中に何度も聞いたのだ。『おぎゃー』という赤子の声を――。
混乱する私に、メイド長のヘンリが顔を赤くして申し訳なさそうに近づき、そっと耳打ちをした。その内容に赤面する。
それは『明るい家族計画』の実行には、キスなんて可愛いステップを飛ばして、もっと大人な、鼻血が出そうなほど過激な手順が必要なのだという宣告だった。
言葉が出ず、顔が熱くなる。そのとき、タルロスが顎に手を当て、こちらをじっと見つめて呟いた。
「……ミザリー、お前の中にウラガーノドラゴンの魂を感じるぞ」
思わず下腹部を押さえ、耳を澄ますと、『ギャー』と微かな雄叫びが頭に響く。あの赤子の泣き声は、この鳴き声だったのか。
でもいったい、なぜ五大邪竜の一柱が私の中にいるのか――。
「なるほどそういうことか、ウラガーノドラゴン。貴様は悪魔侯デミウルゴスに改造され、その肉体をフォルテ様に破壊されたのだったな。魂だけとなり、ミザリーの中に逃げ込んだということか。ふん、情けないな」
鼻を鳴らし、こちらを睨むタルロス。私の中に、わずかに怯える気配――ウラガーノドラゴンを感じる。でもなぜ、私の中に隠れたのか分からない。
「あのね、ウラガーノドラゴンが言うには、自分を倒したフォルテは怖いし、邪竜の自分にサラは容赦なさそうだから嫌だったんだって。
本当はアークに助けてほしかったけど、もしフォルテやサラに見つかれば、魂すら消滅させられそうだから諦めたみたい」
タルロスに代わり、アドニスが答えた。彼もじっと私を見つめ、眉を下げながら言葉を続ける。
「それで結局、消去法で邪竜に対して敵意が少なそうなミザリーを選んだみたい。ちなみに夜な夜な鳴いていたのは、ミザリーの中にいるケビエルに脅されていたからだよ」
説明を終えたアドニスは私に近づき、そっと私のお腹を撫でた。その瞬間、深緑の光球が目の前に浮かぶ。
「これがウラガーノドラゴンだよ。まあ、魂だけだけどね。ずっとケビエルに虐められたせいかな? 邪悪な波動を感じないや」
肩をすくめるアドニス。すべてを理解した私は膝から崩れ落ちた。慌ててヘンリが駆け寄り、優しく背中をさする。
「すいませんでした、ミザリー様。サラ様やフォルテ殿下に口止めされていたのです。ですが、あまりにミザリー様が不憫で、嘘をつき続けることができず――」
そう告げて泣きそうな表情を浮かべる彼女に、悲しく微笑みかける。
「気にするにゃ、ヘンリ。サラたちからの言いつけなら仕方ないにゃ。だけど、サラとフォルテは別だ! 私をここまでコケにした報いは、受けさせてもらうぞ!」
怒りで獣訛りも忘れ、私は言い放った。そして、目の前に浮かぶ緑光の球体とアドニスに手招きし、サラたちを騙し驚かせる計画を語り始めた。
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