305 神衣バハムート
アークが十王の右腕に巻き付いた呪鎖をすべて断ち切った。ナナシを逆手に持ち、回転しながら斬る姿は、見たことがなかった。
神界にいたころのルキフェルは剣を正道に構え、鋭い一振りで敵を断つ『騎士』だった。だが今は違った。死角から急所を一突きにする『暗殺者』のようだ。
無駄のない洗練された動きで、猛烈な速さで十王に迫る。このまま一人で倒してしまうのでは――そう思った。
だが、十王は左腕の呪鎖を外し、両足に巻き付いた呪鎖と一つにすると、巨大なハルバードに変化させた。
猛然と近づくアークもそれに気づく。すぐに白銀の翼を広げて速度を殺し、距離をとろうと反転した。その瞬間――。
十全の十王――完全なる魔物の王は蒼炎のマントを脱ぎ、アークに向かって投げた。それは大空を覆い、巨大な影を落とした。
山のような巨躯を包むマントはアークの頭上に迫り、そのまま飲み込む。刹那、十王がハルバードを振り上げた。
天を指す穂先。その斧頭が陽光を受けてギラリと光ると、大気を裂いて紺碧のマント目がけて振り下ろされた。
それは深々とマントにめり込み、草原へ叩きつけた。直後、猛烈な突風が起きて周囲の草をなぎ倒した。砂埃が舞い、俺は目を細める。
眼前に広がる紺碧の絨毯。どこかにアークがいるはずだ。ハルバードの直撃を受け、まともに動けないかもしれない。すぐに助けに向かおうと、周囲を見渡す。
草原一面を覆い尽くす十王のマント。そこから蒼炎が溢れ出し、周囲の草木を凍てつかせながら、激しく燃えている。
六王の不死鳥に寄生し支配していた蒼き翼が放つ炎と同じだった。触れるものから熱を奪い、自らの熱へ変える氷結の炎――。
マントの下敷きになったアークが心配だ。蒼炎に身を焼かれているかもしれない。走り出した俺の目の前に、十王が立ちふさがった。
「どけ、十王! 貴様の相手はあとだ!」
俺は叫んだ。脳に手術を施され、自我が奪われたベヒーモス。彼に言葉は通じない。分かっていたが、それでも叫ばずにはいられなかった。
かつてない怒りが全身を駆け巡る。それは激しい炎となり、俺の心を焼き尽くそうとする。そのとき、ふとアークの顔がよぎった。
全幅の信頼を預け、十王に向かったその背中を思い出す。その姿は俺にすべてを託し、魔界へと旅立ったルキフェルと重なった。
(周りには気を遣うくせに、俺には平気で無茶なことを頼む――そういうヤツだったな)
その瞬間、すっと烈火のような怒りが消える。自然と笑みが零れると、手に持つ神槍バハムートから神気が流れ込んでくる。
<スカイ様、今こそ神獣の王――その力を解放するときです>
バハムートの意志が伝わり、俺は頷く。もはや人間として過ごす時間に未練はなかった。この力を使えば、天使化は一気に進み、神界に還ることになる。
(まぁ、いいさ。親友を助けるためだ。できれば、人としてアークと戦い、勝ちたかったが――)
俺は目を閉じ、『スカイ』として過ごした時間を思い出す。父や母、マリア姉さんにメリル姉さん、そして双子の弟ジーク。次々と家族の顔が浮かぶ。
――そして、最後にアークの顔が脳裏を通り過ぎていった。
(……家族より親友かよ。俺も大概だな)
俺は苦笑して肩をすくめると、静かに目を開いた。眼前には完全なるベヒーモスが立ちはだかる。彼はハルバードを構え、こちらを睨んでいる。
隙の無いその姿。やはり倒すには力を解放するしかない。改めて覚悟を決め、すべての神気を神槍バハムートに流し込み、叫んだ。
「バハムート、今こそひとつになるぞ! その力、すべて預けろ!」
その瞬間、神槍バハムートは弾け、紅蓮の粒子となる。そして、俺の全身を包み込み、猛烈な光を放った。
それは辺り一面を赤く染め、紺碧のマントすら塗り替えた。俺は視線を落とし、全身を覆う深紅の鎧――神衣バハムートを見つめる。
神々しく輝く紅蓮の鎧。その背には十枚の赤き炎翼が広がり、日輪が浮かんでいる。熾天使のころの姿に戻り、全身を漲る力を確かめる。
握り締める拳――その指先はかぎ爪のように鋭く尖っていた。つま先も同じく爪が伸び、踵からも伸びていた。竜人化したアドニスやタルロスの姿に似ている。
鎧とはいえ、自らの肉体のように馴染んでいる。軽く拳を突き出すと、紅蓮の烈風が生まれ、十王を襲った。
大気を焦がし、一直線に進む炎のかまいたち。十王は半身になり、余裕で回避するが、その表情は固い。こちらの力を測りかねているようだ。
眼前に屹立するベヒーモス――その先に広がる巨大なマントを見つめる。俺が放った炎は蒼炎を掻き消し、一筋の道を作っていた。
――これならアークを助けられる。そう確信した俺は、もう一度叫んだ。
「来い、牛頭天王! 俺に力を貸せ!」
右手を天に突き出すと、空間が捲れて青き雄牛が現れる。空を駆けながら、こちらに向かう牛頭天王。その瞳は歓喜に満ちていた。
その様子を見ていた十王は、ハルバードを牛頭天王に突き出した。だが、青き雄牛はひらりと躱し、俺を目がけて突き進む。
眼前に迫る牛頭天王。次の瞬間、紺碧の閃光が迸った。一瞬、視界が青く塗りつぶされ、右手にずしりと重さが伝わる。
顔を下げて見つめる。握り締めていたのは、濃紺の大槌。牛頭天王――ゴズらしい無骨な形に口元がほころぶ。
俺は戦鎚ゴズを構え、静かに翼を広げる。十王はハルバードを突き出し、こちらを睨んでいた。軽く息を吐き、一瞬でその懐まで詰め寄る。
音速の飛翔。俺を見失った十王は、きょろきょろと周囲を見渡している。その姿に笑みを浮かべ、戦鎚を構える。
直後、両腕に力を込め、全力で横なぎに振り抜いた。ボゴンッと鈍い音が上がり、十王は体をくの字に曲げ、吹き飛んだ。
蒼炎のマントを越えて十王が地面に落ちると、大量の土煙が舞う。口から血を流し、白目を剥くベヒーモスを尻目に俺は、紺碧のマントに降り立つ。
蒼炎が俺を冷やし燃やそうとするが、神衣バハムートから紅蓮の炎が溢れ、逆に蒼炎を燃やし浄化する。
慎重に歩きながらアークの姿を探す。やがて蒼炎が広がるマントの一角に、小さな盛り上がりを見つける。俺は足早に近づき、その場に片膝をつく。
わずかに神気を感じる。紺碧の戦鎚ゴズを手放した俺は、人差し指の爪を鋭く伸ばして真っすぐ引いた。すぐに青い布に線が浮かび、マントは左右に分かれた。
俺は捲れた布地を掴み、大きく広げると、白銀の翼を畳んで身を守るアークの姿が目に飛び込んできた。
吸い込まれそうな漆黒の瞳は、鏡のように俺を映し出し、その背後で鎌首をもたげるベヒーモスの姿を鮮明に捉えていた。
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