祝言の夜
灯心を絞ったランプの下、紋付き袴で正装した巳喜八郎は、式の時よりもたくましく見えた。
祝言の夜である。朝から互いに忙しく、これまでまともに口を利くことも、ままならなかった。
まず、巳喜八郎の実家から婿入り道具、というのだろうか、箪笥やら長櫃やらが運び込まれ、藤野家で用意された部屋へ据え置かれた。
それから巳喜八郎が花嫁行列ならぬ婿入り行列をなして輝理を迎えに来て、共に神社へ向かった。そこで婚礼の式を挙げたのだが、これは先ごろ行われた皇族の仕方に倣ったものである。
禰宜を務める宮内は、お陰で参拝客も婚礼の問い合わせも増えた、と喜んでいたそうだ。
この辺りでは初めての試みで、これを取り入れるために、父輝晃と梨畑の父君、鈴木本家、何故か青柳家と向坂家も加わり、伝統と擦り合わせた祝言をどう執り行うか、額を集めて協議したという。
要は、新しい流行りを面白がっているのである。
「折り節に新しい取り組みを示すことが、地域を長く活かす素となるのだ」
娘をダシにして、遊ぶつもりか、とやんわり意見した輝理に、輝晃は説いたものであった。
父の言にも一理ある。清可や次春に限らず、志ある若者が上京したまま戻らず、致し方なく地元へ残った者が腐るようでは、土地が衰退する。
残った者が安楽に暮らしてこそ、上京する選択も、戻る選択も可能になるのだ。
挙式を終えた輝理たちは、藤野家へ戻り、広く設えた座敷で、お披露目をした。
招待客から一通り祝いの言葉を受けた後、新婚夫婦として、ひと足先に床入りの部屋へ下がったところであった。
寄り集まった親族の歌い騒ぐ声が、廊下を伝ってここまで聞こえてくる。宴会は夜通し続く見込みである。
「一日、お疲れ様でした」
「ここまで、長い道のりでした」
巳喜八郎は、この春師範学校を卒業し、無事に東京の高等師範学校へ入学を決めた。寮から寮への移動である。その合間を縫って、祝言を挙げた。
一方、輝理の方は、あと一年奉職義務が残っている。本当は夏に挙式したかったのであるが、その頃は巳喜八郎の実家を含め、関わりのある家が皆忙しい時期のため、祝言だけでも、と前倒しした。
であるからして、初夜ではあるが、夫婦の契りはもう少し先延ばしにしてもらう、という二人の間の約定であった。一応は。
輝理は、昨年開校した高等女学校に採用されている。地元ではないが、同じ県内である。
巳喜八郎の通う師範学校が、別の土地に移転したとはいえ、教師と学生が睦み合う様が他の生徒の目に触れるのは如何なものか、と、遠距離が解消した代わりに二人で出歩く機会はほぼ失われた。
従来通りの婚姻であれば、それはごく当たり前の話であるが、親戚付き合いの延長のような交際を続けてきた巳喜八郎にとっては、不満もあったのではなかろうか。
それに、従来通りの婚姻ならば、初夜は初夜である。
果たして、この雰囲気に押されず、無事に夜を明かせるであろうか。巳喜八郎一人のみならず、輝理にとっても、試練である。
「輝理さん。お綺麗です」
巳喜八郎の手が、顎にかかる。慣れた手つきである。
接吻だけなら、もう数え切れないほどした。初めは接吻する、という行為自体に感じていた喜びが、回を重ねるうちに、体の快楽に繋がった。今、輝理の鼓動が跳ね上がったのは、期待によるものだ。
「ああ」
抱きしめられながら唇を重ねた後、自然と深い息が漏れた。巳喜八郎も息を吐く。
「残念です。この姿のあなたを、抱きたかった」
輝理はまだ巳喜八郎の腕の中にいる。夫となった男の鼓動を花嫁衣装越しに感じ、首筋にかかる息の熱さに体が震えた。
「ごめんなさい」
「致し方ありません。婚儀を早めたのは、こちらの都合ですから」
正確には、梨畑だけでなく、藤野家を始めとする関係各位の総意である。
「でも、一つ布団に寝むことは、許してもらえますか」
「はい」
「よかった。なんだか今夜の輝理さんは、いつにもまして、可愛らしい」
巳喜八郎は、首筋に軽く唇を当ててから、輝理の顔を見た。背中がぞわりと落ち着かない。
輝理は、胸に顔を伏せた。着物の合わせ目から覗く肌が、すぐ目の前に広がり、思わず唇を当てた。と、仰向けに布団の上へ押し倒された。
「輝理さん」
首を含む顔中に、唇を押し当てられた。最後に唇同士が当たり、深い接吻を交わした。唇から全身に快感が広がる。
着物の裾が割れ、巳喜八郎の袴から出た素足に触れた。輝理は、背中へ回した手に力を込めると共に、両脚で彼の脚を挟んだ。
「うっ、輝理っ」
「巳喜さん」
もっと深く繋がりたい、その予感が達せられそうになった瞬間に、勢いよく体を離され、輝理は呆然と相手を見た。泣き笑いのような顔をしていた。
「そんな顔をしないでください。僕だって辛いのです」
言われて、我に返った。布団の上へ、起き上がる。
「私が求めた約束だった。すまない」
「撤回しますか」
巳喜八郎が、期待に満ちた眼差しで、輝理を見る。答えは決まっている筈だった。しかし、体に刻まれた快感が、輝理の判断を鈍らせる。
たった一言。
うん、と口にしてしまいそうで、輝理は立ち上がると、廊下へ出る襖を開けた。
「あっ」
背後から、声が上がった。
輝理は、声の方へ顔を向けようとして、廊下にひっそりと端座する影に気がついた。
「影臣」
守護人は、目を伏せたまま、平伏した。
そういえば、宴席からは、早い段階で姿を消していた。慌ただしさに、行方を考えることもしなかった。
「警固のために控えているんです。しきたりなんだそうです」
輝理の後まで出てきた巳喜八郎が、守護人に代わって説明した。影臣は、平伏したままである。
「聞いていない」
「輝理さんを気遣ったのですよ。だから、僕も衝動に負けずに済んだのだけれど」
「そうか」
主である当主を差し置いて、まだ夫でもなかった巳喜八郎が事情を知っていたことは、面白くなかった。
だが、輝理も心の奥底で、夫に無理矢理契りを迫られた時には、守護人を頼る気持ちであったことに気が付いた。
まさかこんな襖一枚隔てた場所とは思わなかったが、呼べば駆けつけてくれる、確固たる信頼を持っていた。
実際は、輝理の方から夫を誘う形になってしまった訳だが。
「もし」
影臣が、平伏したまま、話し始めた。
「ご当代様が、今宵を真に初夜となさるならば、この場を去り、遠方より警固いたします。既に、お館様には、閨の手解きを済ませましたゆえ、差し障りはございません」
いつか影臣に、閨の作法を巳喜八郎に仕込むよう、頼んだ覚えがあった。
その後輝理も、男に対する言葉の選び方、態度の示し方などを教わり、また自ら見聞きしたこともあって、当時の記憶は羞恥と共に封じられていた。
恐らくは、輝理が頼まずとも、なされた仕事に違いない。ともかく、このまま初夜にしてしまっても問題ない、と守護人は言っている。恥ずかしい声などを聞かれる心配もない。
「いや。予定通りとする。ここは冷える。次の間に控えておれ」
「承知いたしました」
影臣は、最後まで顔を上げなかった。
「残念でした」
襖を閉めると、巳喜八郎が言った。口ほどには、残念そうに見えなかった。成り行きを、予想していたのかもしれない。
「楽しみは、後にとっておこう。まず私は、あなたが夫になってくれたことが、嬉しい」
「僕もです」
輝理は、夫の腕にするりと入り込んだ。




