見送り
駅近くの旅館に、部屋を取っていた。卓を挟んで黙り込む二人に代わり、影臣は適当に仕出しを頼んだ。
馬に蹴られて云々という言い回しが、頭の中を駆け巡る。
邪魔をしているのは、重々承知だった。ここは席を外して、当人同士存分に言葉を交わすように計らうのが、妥当なところであろう。
影臣が場を去らないのは、一つには、主の守護、という名目である。
若い二人を放置して、婚儀の前から主が身重となっては、外聞が悪い。たとえ主が望んでも、先行きを思えば止めねばなるまい。
今ひとつは、影臣の私情である。
輝理が、いずれ巳喜八郎と夫婦になるのは、認めざるを得ない。主の伴侶として不足はいくつもあるが、先ほど見せたなりふり構わぬ熱情も含め、他の男よりは余程好感が持てる。
夫になることを認めるのだから、それまでは、守護人である影臣が付ききりとなることを、許して欲しい。
そんな理屈が通らないことは、分かっている。
部屋の隅に引っ込み、余計な口を利かないのが、影臣にできる、精一杯の譲歩であった。
「遠路はるばる足を運ばせたな。何かと大変だったろう」
先に口を開いたのは、輝理である。声からは、常の心遣いしか聞き取れない。しかし、受けた巳喜八郎の顔つきから、影臣には主の顔に浮かぶ慕情が見える気がした。
「いいえ。旅費は、輝晃様が用立ててくださいましたし、帝都では次春くんにお世話になりました。あの、遅れましたが、これ、お土産です。どうぞお納めください。影臣兄さんにも」
と、この間合いで土産を差し出し、輝理が声を上げて笑った。影臣も、力が抜けてしまう。
「お気遣い、ありがとう。ところで、この度のことだが」
場が和んだところで、輝理が本題を切り出した。たちまち巳喜八郎の表情が引き締まる。
「輝理さんは、僕が進学しなければ、結婚してくださるのでしょうか。それとも、こちらで良い人を‥‥」
と言葉を途切らせると、早くも涙の溜まった目で影臣を見る。
否定してやりたいが、影臣の言うことでもない。主へ視線を移す。
「違う。そのような者はいない。私は、巳喜さんに、高等師範学校へ進んで欲しい。しかしながら、子を産み育てる期間を考えると、卒業まで待てないのだ」
「でしたら僕が」
「待て。少し話を聞いてもらえまいか」
巳喜八郎は、傾聴する姿勢を取った。
そこで輝理が持ち出したのは、先に影臣が主に示した案であった。主の前では、婚約者が両手を挙げて賛同すると請け合ったものの、こうして実際に披露されると、自信が揺らいだ。
「破談の話は、私の独り決めで書き送った。今の話は、影臣からの申し出だ。どうだろうか」
果たして、巳喜八郎は黙考する様子である。己の代わりに、男の守護人が妻の側で子育てを担うのだ。
父の座を奪われる、とまではいかなくとも、近い境遇に子を置くことになる。
正直なところ、夫婦や親子の真似事には、影臣にも多少の下心があった。あくまでも真似事でしかないが。
巳喜八郎が、顔を上げて影臣を見た。真っ直ぐな瞳に、己の下心を見透かされたように感じ、目を伏せた。なおも沈黙は続く。輝理も返事を急かさず、待つ。沈黙に耐え難いのは、影臣であった。
「わかりました。輝理さんのお話の通りで結構です。僕の我が儘を聞いてくださり、ありがとうございます。家へ戻りましたら、その旨伝えます。輝晃様へも報告いたしますが、輝理さんの方からも、お伝えください」
「もちろんだ」
「影臣兄さん、聞いた通りです。今後とも、よろしくお願いします」
影臣は、目を上げた。大人びた微笑を浮かべた巳喜八郎と、目が合った。言外の圧力を感じた。
短い間に、成長したものだ、と感心しつつ、黙って頷いた。
「失礼します」
仲居が仕出し弁当と茶を用意して、入ってきた。思ったよりも早く届いたものである。
「朝食を取っていないだろう。遠慮なく召し上がれ」
「では、いただきます」
箸を取る巳喜八郎。しばらくは、食事を進めつつ、師範学校の男子と女子の違いや、先に行った島巡りの話などに興じた。影臣と同様、輝理も朝食を済ませてきたので、付き合い程度に箸をつけるのみである。
聞けば、明朝の列車で帰途に着く予定という。宿は、こちらへ来てから探すつもりだったらしい。
「まだ、休業日は残っているだろう」
「輝理さんに会えたので、もう十分です。実家の手伝いもあります」
心配事と空腹が消えたおかげか、巳喜八郎の声も表情も、元の明るさを取り戻していた。
「影臣。この部屋を一泊押さえられるか、宿の者に頼んでもらえまいか」
輝理が、影臣を見て頼んだ。声が微かに緊張している。
影臣は、主の目論見を察した。
接吻である。いつか、玖埜やその他の男共に奪われる前に、思う相手としておこう、という、ある意味即物的な考えである。
今や輝理は、巳喜八郎に告白され、自らも彼を恋慕している。躊躇う理由はない。この機会を逸したら、婚礼まで会えないかもしれないのだ。
今度こそ、席を外さなければならなかった。
急に鉛のように重くなった足を運び、影臣は部屋を出た。
巳喜八郎に代わって宿泊手続きを取りながら、如何に彼が手練れであろうと、この間に輝理を孕らせることはできまい、と考えて、自ら慰めた。
急ぎ足で戻ってみると、襖を開けた途端に、輝理と巳喜八郎がぱっと離れるのが、見えてしまった。
予想通り、接吻で時間切れである。当てたところで、さほど慰めにはならなかった。
「に、兄さん、これは」
「言うな。分かっている」
顔を真っ赤にした巳喜八郎が、焦りのあまり失言しないよう、影臣は手を振って黙らせた。
輝理の方は、平気なものである。してやったりとばかりに、目を輝かせている。まるで、いたずらに成功した子供のようだ。唇の紅が乱れている。そんなに良かったのか、と影臣の胸が、ちくりと痛む。
「ご当代様。化粧が乱れております。手水場に鏡がありましたゆえ、そちらでお直しされたがよろしいでしょう」
努めて冷然と言った。輝理はたちまち顔を赤くした。
「そ、そうか。では、しばし失礼する」
男二人で見送った後、影臣は懐紙を取り出して巳喜八郎に差し出した。
「巳喜君も、口の周りを拭きたまえ」
巳喜八郎が、焦って懐紙を揉まずに顔をごしごしやるものだから、顔に擦られた跡がついた。それから傍へ移動し、畳に手をついて頭を下げる。
「影臣兄さん。輝理さんを、僕に下さって、ありがとうございます」
「私は、ご当代様をどうこうする立場にない」
意味は、わかりすぎるほどわかっていた。しかし、そんなことをするのは却って失礼だ、とこの純情な若者に指摘する気力もなかった。
「君も、初めてだったのか」
「は、はい。でも気持」
言いさして止めたのは、影臣の表情から何かを読み取ったのだろうか。影臣は、主の婚約者を前に、気を引き締める。
「では、そのうち閨の作法を指南する。寮の先輩と遊里へ行く機会があれば、そこで学んでも構わない。それはそれとして、初夜までにこちらからも伝授しよう。くれぐれも、その前にご当代様を汚さないように。もちろん、他の女人と不適切な交わりをすれば、破談になる。これは、ご当代様のご意向だ」
「はい。あのう、兄さん。せ、接吻は、しても宜しいですか」
真面目に尋ねる巳喜八郎の顔には、まだ紙の跡がある。女に引っ掻かれたようにも見えた。影臣は、また気が弛むのを感じた。
主従共々、この若者にはどうも弱い。
「ご当代様の許しがあれば、ご自由に」
「あっ。巳喜さん、その顔はどうしたのだ」
襖が開き、輝理が戻ってきた。化粧はきちんと直っていた。
その後、巳喜八郎には少し部屋で休んでもらい、夕方近くになって、いつもの公園へ案内した。公園で二人が手を繋いで歩く後ろに、影臣は付き従った。
時折、周囲から向けられる視線が気になる。前を歩く二人が、邪魔にしないのが救いだった。
「巳喜さん、この梅がかの有名な‥‥何という銘だったかな。影臣」
「輝理さん、あそこの茶店で休みましょう。影臣兄さんも、お疲れでしょう」
輝理はもちろん、巳喜八郎も、影臣と共にいるのが当然のように振る舞った。
夕食は、旅館で三人一緒に取った。
翌朝、取り立てて約した訳ではないが、輝理と影臣は、駅で顔を合わせた。
汽車は既にホームに入っている。
巳喜八郎が駆けてきた。手に弁当の包みを持っている。
「おはようございます。お見送り、ありがとうございます」
「おはよう巳喜さん」
「まず、汽車に乗ってくれ」
今朝は、輝理も汽車の側まで行き、巳喜八郎が席を定めるのを見守った。巳喜八郎が窓を上げ、主に手を差し出すと、主はその手をぎゅっと握った。
出発時間まで離しそうにない。影臣は、婚約者たちの側へ行き、用意した手土産を、窓から座席へ落とし込んだ。
「あ、兄さん。ありがとうございます」
手を握りあったまま礼を言うのを、下がりながら聞いた。
「トンネルへ入る前に、窓を閉めるのを忘れないように。煤で顔まで黒くなる」
主の後ろから、忠告した。返事はあったが、頭に入ったかどうか。
「あの。もう一度、キッスしてもいいですか」
唐突な英単語に、どきりとして、つい二人を見てしまった。日本語で言えば、接吻のことである。
影臣には、主の豊かな黒髪しか目に入らなかった。
カランカラン
鐘の音が聞こえた。駅員が、柄のついた鐘を手で振りながら、手旗を掲げていた。口には呼子まで咥えている。
輝理が後ろへ下がった。
汽車が、蒸気を吹き出し、動き始めた。
巳喜八郎は、開いた窓から身を乗り出して、手を振った。
輝理も、汽車が見えなくなるまで、ホームで手を振り続けた。




