偵察
盆休みの間に、向坂清可が、東京からはるばるやってきた。
駅前のホテルに宿を取っている。
影臣は料亭を予約し、遠慮する主を連れて、会いに行った。清可との婚約は便宜上のことであり、何より当人が、輝理の顔を見たがっていた。
「やあ、輝理さん。久しぶり。会えて嬉しいよ」
長旅の疲れも見せず、清可は満面の笑みで出迎えた。その笑顔は、婚約者たる影臣でなく、輝理に向けられている。
「私も会えて嬉しいのだけれど、お邪魔して悪いわ」
「何、影臣様とは始終文でやり取りしている。一泊旅行の話も聞いた。お変わりなくて何よりですわ、影臣様」
取ってつけたように言う。
盆に帰省もせず、二人きりで泊まりがけの旅行までしたと聞いて、様子を見に来たものであろう。
一応の婚約者である清可自身に加えて、藤野家と青柳家、もしかしたら梨畑の鈴木家の意向も受けているかもしれない。梨畑は、輝理の婚約者、巳喜八郎の生家の屋号である。
影臣は、探られて困ることは、何もしていない。
「しかし、遠かった。帝都からこれでは、盆休み中の帰省を取りやめるのも仕方ない。年末年始も、積雪を考えると、無理だろうな」
料理が運ばれてきた。清可のために、とりあえず地元の酒を注文しておいた。
「おっ。地酒か。いいねえ」
ひとしきり飲み食いする。合間に、帝都の流行り廃りを聞き、こちらの風物を話した。
郷里の人々からの要請があったかどうかはともかくとして、清可自身は、輝理の顔を見たいのと、ついでに旅行を楽しむのが主目的に見えた。
影臣とは、偽装婚約の間柄である。輝理さえ無事ならば、婚約者がたとえ浮気しようが、嫉妬で騒ぐ心配はない。
「次春くんも、元気でやっているよ。予備校の仲間と遊びに行ったりしているみたいだが、息抜きも必要だ。勉学を続ければ、どこかしらには受かるだろう」
「まあ。気にかけてくださって、ありがとうございます」
主が思わず礼を言った後、影臣を見た。影臣は頭を振る。命じた覚えはない。
次春は、輝理の備である。見守る義務もなく、正直なところ、どうなろうと知ったことではない。
先代には家督争いで死人を出したが、当代は、姉弟の間に世間並みの情が通っているらしい。
「それで、いずれ当人から便りがあると思うが、巳喜八郎くんの置かれた状況について、次春くんから聞いた話をしよう」
料理が出揃って、酒の追加をすると、清可が切り出した。五合をほぼ一人で空けて、平気な顔をしている。
師範学校へ進学した巳喜八郎は、やはり寮の生活が厳しい、とのことであった。手紙はいちいち先輩から検閲を受けるため、次春宛にもはっきりとは書けないようだ。
輝晃宛の手紙が無事なのは、学資援助元でもあり、当たり障りのない文ばかり書き記すためであった。
たとえ婚約者であろうと、女との文通などもってのほか、らしい。
「授業も物足りないみたいだよ。検閲を通すための方便かもしれないが」
「顔を見て、お話しできれば良いのだけれど。帝都で落ち合えば、何とかなるかしら」
「夏期は収穫に忙しく、帝都まで出るのは難しいでしょう」
影臣は輝理の案に、水を差す。実際、梨農家である巳喜八郎の実家は、夏期休業中が出荷期と重なり、人手が必要な時期である。
以前、かなり無理をして一日捻出した時には、同じ県内への外出が精一杯であった。まず、輝理の日程に合わせられるかが疑問である。当時は学生だった主も、今は勤め人、そうそう休めない。
「年末年始は、どうかしら」
「運休で、帰れなくなるかもしれない。輝理さんも、巳喜八郎くんが恋しくなったか。梨畑へ、文をやるといい。喜ぶぞ」
清可が温かい笑みを浮かべ、ごく真面目に勧めた。輝理も、照れずに受け止めたが、恋しさよりも義務感からと、影臣には思われた。
輝理が厠へ立つと、清可が表情を改めた。
「臣が、真摯に務めを果たしているようで、安心したよ」
「当たり前だ。誰が疑っているんだ」
己が最も危ういとわかっている。影臣は、殊更強く言い切った。
「誰も疑いやしない。強いて言えば、私か。臣を、よく知っているからな」
清可は、残った杯を干した。偽装婚約を持ちかけた張本人は、影臣の心を見通していた。
この配下もまた、影臣とは別の意味で輝理に想いをかけており、ある意味二人は、輝理を巡り寵を競う関係でもあった。いずれも当人は、預かり知らぬ事である。
今日は、輝理に遠慮して、煙草を置いてきたようだ。白い指が、無意識に箱を探すところを見ると、そろそろ宿へ返した方が良さそうだった。
「澪の様子は、どうだ」
輝理は口に出さないが、澪に休学させた責任を感じている。影臣は、それとは別に、主の安全を慮って、馘首にした配下を気にかけていた。
「留年したが、問題はない。学業にも、素行にも。新しい男には、興味なさそうだな。兄様も、やっと縁談を諦めてくれた。これで別荘にも行けるというものだ」
「そうか。玄丈さんにも、気苦労をかけたな」
「臣のせいではない」
翌日は、やはり輝理と三人で土産を買うのに付き合い、影臣と清可、清可と輝理の写真を撮り、互いに持たされた。清可は当然、輝理との写真を手に入れた。
婚約者の鈴木巳喜八郎から、分厚い封書が届いたのは、清可が旅立った後である。
輝理は、食事もそこそこに、自室へ戻ると早速開封した。
「輝理様 返事が遅れて申し訳ありません」
詫びから始まった手紙には、寮内事情によって文通が叶わないこと、必要があれば、この度のように藤野家を通じて知らせて欲しいことが、簡潔に記してあった。
授業が物足りないことも先輩方の理不尽な仕打ちも、努めて明るい調子で書かれており、輝理が読んで笑ってしまうほどであった。心配をかけまいとする気持ちが伝わる。
そして最後に、高等学校へ転学するには及ばないが、高等師範へ進みたい旨が認めてあった。
「重ねてご負担をおかけする上に、輝理様をお待たせしてしまうことが心苦しく、これまで秘めておりましたが、転校を勧めてくださったことに力を得て、思い切って打ち明けました。お許しを得られるとまでは期待しておりません。ただいま後顧の憂いなく師範学校で勉強に打ち込めるのも、輝理様と、輝晃様のお陰です。いずれになりましても、卒業後は、自ら学ぶことで、学を深くしたいと思います」
という意味のことが、師範を目指す学生らしく、綺麗な候文で書いてある。筆書きであった。
読み終えて、輝理は考えに沈んだ。
男子の高等師範学校は、四年制である。そして、男子師範学校の奉職義務は、十年間であった。
奉職して何年か後には、勤務地を選べるであろうが、それも空席があっての話である。そこまで先を考えずとも、巳喜八郎が進学すれば、少なくとも五年以上は待たされることを、覚悟しなければならない。
その時、輝理は三十路である。さすがに受け入れ難かった。
一方で、彼の向学心も理解できた。輝理自身、学を求めて上京した身である。婿入りのために進学を諦めさせることは、嫁入りするから学問は不要、と言われることと同義である。
己がされて嫌なことを、夫となる相手に強いるのは、不公平に思われた。
婿の話がなければ、心置きなく進学させることができるのに。学費を出す父も、巳喜八郎の望みを喜んで叶えるだろう。
と考えた輝理は、婚約を破棄すれば済むことに、思い至った。
もうすぐ夏期休業も終了し、学生たちが戻ってくる。
帝都よりも、少しだけ休みが短いのは、冬が寒いからと聞いている。その分、冬休みは長いそうだが、輝理には大して変わらないように思えた。
巳喜八郎には、是非進学するように、輝理からも父に頼むと返信を出し、父宛にも手紙を書いた。
子を産む関係上、輝理との婚約は解消することになるが、援助を続けて欲しい。何なら父の個人財産ではなく、藤野家から学費を出しても良い、と書き添えた。
これで、婿選びは振り出しに戻る。
次に縁談を受けるのは、奉職期間を終えてからにしよう、と輝理は決めた。ただでさえ郷里から遠い地にいる。
すぐに祝言を挙げるのなら、今から婚約する必要はない。また、途中でどんな不都合が出来するか、わかったものではない。
新学期に向けて、教室を回り最終的な点検をする。雑用は、新人教師輝理の役割である。掃除の仕上がり、チョークがなければ補充、掲示物の入れ替え、机や椅子のがたつきを見る、など確認しつつ、順番にこなしていく。
通常の教室以外にも、図工室や理科室といった、教科専用の部屋も、一通り見回る。
音楽室に入ろうとすると、戸が開かなかった。建て付けが悪いのか、と揺すってみたが、どうも内側から鍵がかかっている。
「すみません、点検に来ました」
怪しまれないよう、声をかけたが、中からは返答がない。布が擦れるような、人のいる気配だけが伝わる。作業中に、怪我でもしたものか。音楽担当と言えば、笠元である。
輝理は、控えめに戸を叩いた。
「大丈夫ですか。人を呼んで来ます」
「だ、大丈夫。ここは、やっておくから、他へ行ってっ」
まさに、笠元の声で返事があった。息が乱れている。集中を要する作業中で、邪魔をされたくないようだ。
「わかりました。よろしくお願いします」
輝理は声を励まして言うと、次の部屋へ移った。
その辺りの部屋を全て見終わって、最後に音楽室へ、もう一度寄ってみた。
内側は、ひっそりとして気配がない。輝理は念の為、戸を叩いてみた。
「失礼します。何かお手伝いしましょうか」
戸を引いてみる。すんなり開いた。
中には誰もいなかった。熱気で空気が澱んでいる気がして、輝理は窓を開けた。
習慣で、一通り消耗品などを確認し、不足については補充するよう手配した。
笠元が中で何の作業をしていたものか、音楽を通り一遍習っただけの輝理には、見当もつかなかった。




