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輝理と影臣  作者: 在江
第三章
24/30

目撃譚

 宿へ戻った時には、時刻も腹の具合も夕食時であった。


 言いつけ通り、影臣の部屋へ運ばせた二人前の膳には、港町らしく新鮮な魚介の刺身が、盛り付けてある。

 日頃暮らす城下の町も海は近く、魚料理はよく供されるが、旅先での食事はまた格別であった。


 「己の働きで旅行を楽しめるのも、あと僅かだな」


 予定通りならば、輝理は数年後に退職して結婚する。すぐ子に恵まれなくとも、長年留守にしていた家を治めるのに忙しくなるだろう。


 「巳喜君が進学するなら、今しばらく猶予(ゆうよ)がありましょう」


 師範の学生は夏期休業に入ったが、未だ婚約者からは便りがない。輝理の実家経由である。まず、手紙が本人に渡るまで時間がかかる。


 「その頃には私も良い歳であるし、子を産み育てる期間を考えると、あまり先延ばしも出来ない」


 「そうですね」


 輝理が後継を得るのが遅れれば遅れるほど、影臣の寿命は伸びるのであるが、もちろんそのことは言わない。

 影臣も、己が長生きするために、(あるじ)の考えを曲げるつもりはなかった。


 「それで尋ねたいのだが、(ねや)のことは、年上の私が導くべきだろうか」


 「ぶ」


 影臣は、吸い物を噴き出しそうになった。反動で吸い込み、今度は咳き込む。


 「大丈夫か」


 側へ寄ろうとする主を、どうにか押し留める。呼吸を整えつつ、目の端で窺うが、常と変わらぬ態度であった。


 「失礼しました。婚儀の後の話ですよね」


 初夜、と口にできなかった。瞬時、(ほの)かに期待してしまった己の心持ちが、その言霊(ことだま)の力で(あら)わにされる気がした。


 「ああ。それもあるが」


 ここで輝理が言い(よど)む。平静を装う影臣は、黙して待つ。


 「どこから話したら良いものか。以前、教頭に触れられた件があったろう」


 「手を掴まれただけで済んで、幸いでした」


 「その時、お前は、最初に私に接吻すべきは巳喜さんであるような事を、言っていたではないか」


 影臣は、主の言葉を反芻(はんすう)し、記憶と擦り合わせる。言ってはいないが、趣旨は合う。肯定(こうてい)の代わりに頷いて見せる。


 「私は、ああいう風に事故に当たってしまった場合は、子を(はら)むのでない限り、数に入れずとも良いと思うのだが、殿方にとって初めてが大事と言うなら、また事故に遭う前に、とりあえず接吻ぐらいしておけば良いか、と考えたのだ。祝言まで先も長いことであるし。いつ会えるかは、わからぬが」


 交合(こうごう)の手順ではなく、接吻の相談であった。影臣は心のうちで、胸を撫で下ろす。


 「それは、輝理様に求められたら、彼はいつでも喜んで応じると思います」


 巳喜八郎が初物に(こだわ)るかどうかは知らないが、婿に迎える礼儀上、()のまま差し出すに越したことはない。

 婚礼まで男に触れさせたくないのは、主の意向というより、影臣の我が儘であった。


 「聞きにくいであろうが、このような相談を持ちかける相手もなく、耳や時を気にせず話す場もなかった。旅情を損ねたな」


 「いいえ、そのようなことはございません。打ち明けてくださって、嬉しく思います」


 「では続けるが」


 続くのか。影臣は、慎重に料理を口へ運んだ。


 「閨の仕方は、以前、向坂の方で行った講義の分で足りるか。他に初夜独自の作法などあれば、教えて欲しい」


 動揺を、咀嚼(そしゃく)の時間稼ぎで抑える。やはり交合の話であった。

 向坂(こうさか)家の別荘で、藤野家の前当主と向坂家父子の監視の下、輝理と配下の二人に婚前交渉で気をつけるべきこと、という題目で講じたことが、確かにあった。


 「あれは、(はら)まないための基礎知識であって、閨の作法とは違います」


 「そ、そうなのか」


 輝理の箸が止まった。同い年で既に母となっている者はごまんといるのに、初々しいことである。

 そう思う影臣の心が、また波立つ。(ぜん)に目を注ぎ、()いて抑えた。


 「閨の作法など、婚礼前にお館様が教えてくださるでしょう。ご心配には及びません」


 「母上だと、『全部殿方にお任せすれば良いのです』で済ませそうで、不安だ」


 その口真似が上出来で、影臣の頬が緩む。


 「では、婚礼前までには、巳喜君に、私がきっちり教えておきます。ご当代様には、(うれ)いなくお過ごしください」


 (ようや)く、輝理の愁眉(しゅうび)も開いた。


 「それは助かる。頼りにする」


 「お任せください」


 (こころよ)く請け合ってから、皮肉な巡り合わせになった、と苦さを密かに噛み締めた。

 主には告げていないが、初夜には影臣が警護につくのである。こうなると、教え子の成長に喜びを見出すぐらいでないと、やりきれない。


 ふと、いつかの玄哲(げんてつ)を思い出した。あれも、弟たちが血の争いに巻き込まれたやりきれなさを、毒の分析に没頭することで紛らせたのであろう。向坂家の当主には、他にも多くの負担をかけている。

 命のかかった彼らの仕事に比べれば、己の悩みなど些細(ささい)なものであった。



 海の風は、潮の匂いがした。昨日、駅に降りた時に混じっていた生臭さも今は消えて、海上の空気を堪能(たんのう)することができた。


 上天気である。波が高い気もするが、小舟から海面を間近に見るせいかもしれない。


 輝理は、一通りの水練(すいれん)は出来るつもりであった。実際に泳いだ記憶は、数年前の学生時代が最後である。

 海の方が、真水よりも浮きやすいと聞く。落ちた時には、それを当てにするしかない。


 船を雇って、船頭の案内で島巡りをしていた。旅館で予約したら、他の客と相乗りになった。向こうは、恋人同士らしく、ともすると説明そっちのけで、互いに(むつ)み合っている。

 それはもう気にしないことにしても、主従としての節度を保つ影臣と輝理の仲を勘違いした挙げ句の気遣いで、無闇(むやみ)と話しかけられるのが、やや鬱陶(うっとう)しい。


 「ほら、あちらに海鳥が見えますわ。あなた方も、ご覧になって」


 「まあ、夫婦島ですって。素敵な名前。あなたも、そう思うでしょう」


 雑音を聞き流せば、船に座ったまま、大小様々な形の島を見て回るのは、面白い体験だった。

 船を降りると、少し足元がふらついた。軽く船酔いしたらしい。


 「大丈夫ですか」


 すかさず影臣が支える。輝理は頷いた。


 昨夜は愚問(ぐもん)を発した。何だって閨の話など、持ち出したか。


 影臣が理性的に振る舞ってくれたお陰で、何事もなく済んだ。

 相手が玖埜(くの)教頭のような男であったら、乱暴しても、輝理が誘ったと主張するだろう。


 輝理にとって、影臣は庇護者でもあり、部下でもある。守護人とは、そういう存在だ。

 だから、二人で宿泊すること自体に問題があるとは、思っていなかった。たとえ主を憎んでいようが、恋していようが、守護人は主に従う。その点は信頼している。


 外部の目を意識したのは、宿の女将に色々問われてからである。通された部屋が、襖で仕切られただけの立派な和室で、女将の懸念も何となしに理解できた。影臣と輝理は、歳にして二つしか違わないのである。

 影臣は親戚同士と説明していたらしいが、二人は生憎(あいにく)と似ていない。


 通常、主と従者が旅をするなら、従者は身分に合った部屋へ泊まる。だが、影臣だけ粗末な部屋へ追いやる気は、輝理にない。護衛の意味でも、隣室へ泊まってもらった方が、安心できる。


 それだけに、主の輝理が、慎重に振る舞うべきであったのだ。


 旅先で気が緩んだ、と言っても限度がある。しかも、影臣が、守護人以上の感情を主に持つことを、輝理は知っているのである。


 謝りたいが、それもできない。


 もやもやした気持ちを抱えたまま、食堂で飯を食い、土産に酒と菓子を買った。職場や下宿宛の他、郷里の実家宛に買った分は、荷物にして送り、汽車に乗って帰路についた。



 城下の笹飾りがすっかり取り払われて、町は盆の準備を始めていた。

 影臣が人力車を手配する間、輝理は広々とした駅前を何となしに眺める。


 何故か仁王像が飾られているホテルを初め、旅館も多くあり、さらに増える(きざ)しである。人の往来も、帝都ほどではないにしろ、絶えずにある。


 視線を感じ、振り向いた。


 そこにも人々が歩いているばかりである。否、ひと組の後ろ姿に、見覚えがあった。


 少し考えて、白路(しらじ)と思い当たった。職場と違い、和装のために、すぐとはわからなかった。すると、隣にあるのは細君であろう。会ったことはないが、何故か、これにもまた、見覚えた感がある。


 「輝理様、お待たせしました」


 影臣が、人力車を従えて、呼びに来た。



 職員室で土産の菓子を割って配ると、当然ながら、誰と行ったかの話になった。

 学生は、夏期休業に入って不在である。普段よりも、職場の厳格さが緩みがちであった。


 輝理は、同郷の保護者に当たる者、と説明したのだが、聞き手の関心は、それが男か女かに終始した。

 男、と打ち明けた後の反応は、輝理を密かに苛立たせた。ムキになって否定するのも、変に隠し立てすると同様、相手を調子付かせるだけなので、表面では聞き流す。


 「心中でなくて良かったわ」


 縁起でもない感想を述べるのは、棚家(たないえ)である。彼女は出発前、輝理の荷物を見て、駆け落ちと評していた。


 「では、昨日駅に居たのかしら。荷物をお持ちになって、お二人で」


 急に、笠元(かさもと)が問いかけた。柔らかい落雁(らくがん)を、上品に(つま)んでいる。


 「ええ。昨日の午後早くに、駅まで戻りましたわ」


 とそこで、白路を見かけた事を思い出し、その方を見たが、彼は菓子を懐紙の上に置いたまま、書類仕事に熱中する風であった。


 「保護者と言っても、大分若いのね。婚約者ではないのよね」


 笠元の声に、視線を呼び戻された。鋭い目つきである。


 「違います。向こうにも、東京で婚約者が待っています。所帯(しょたい)を持つ前なので、若く見えるのでしょう。私よりも年上ですから」


 (やま)しい関係はない。輝理は、正面から見返した。


 「結婚しても所帯じみたりしない殿方もいらっしゃるわよ。ほら、白路先生だって」


 菓子を食べ終えた棚家が割り込んだ。笠元と輝理の間にある緊張に無頓着な、はしゃいだ調子だった。


 「私がどうかしましたか」


 白路が顔を上げた。棚家の声が、思いの外大きく響いたようだ。


 「いいえ。何でもありませんわ」


 笠元が、とりなすように微笑みかけた。

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