猿芝居
手首を掴まれた。護身の術で逃れようとして、上司に使って良いものか、迷いが生じた。その一瞬で、機を逃してしまった。鳥肌が立つ。
「教頭先生」
「輝理先生、僕はっ」
急に手を離した玖埜は、反対側の手で肩を押さえようとするが、鞄が邪魔で果たせない。
輝理は、鞄を持ってやった。
「どうなさいましたか」
「わかりません。急に、肩に痛みが」
肩を押さえて、顔を顰める。
「では、教頭先生もお帰りに。下宿には薬箱もあるでしょう」
「そうですね」
玖埜は何故か、嬉しそうに言う。輝理は鞄を持った成り行きで、下宿まで送る羽目になった。
「輝理。その男は誰だ」
下宿の前で、背後から厳しい声をかけられた。想定はあったが、実際浴びせられると、びくり、と体が反応する。名を呼び捨てられたのは、久々だった。
玖埜も驚いたようで、不本意ながら、二人して恐る恐る振り向く次第となった。これでは本当に、輝理が玖埜と不貞をしたらしく見える。
「おや。これは、玖埜さんでしたか」
思った通り、そこには勤め帰りの影臣がいた。覚悟したより怖い顔ではないが、玖埜を前にしても笑みはない。
二人が同じ下宿にいるのは、知っていた。影臣も、輝理の教頭が玖埜であることを知っている。
であるからして、承知の上で、あのような物言いをしたのだ。
「あ、ああ。青柳さんでしたか。ええと。私と藤野先生は、決して後ろ指を差されるような関係ではなく」
「あ、影っ‥‥兄上。玖埜教頭は、私の上司で、今日は肩をお怪我されたので、鞄を持って差し上げただけですわ」
想定問答などはなく、保護者に対してどのような呼びかけをしたものか、輝理は咄嗟の間にそこから考えねばならなかった。
結果、芝居に真実味が加わった、と思いたい。
「では、婚約者というのは‥‥」
「違います。私は、同郷の誼で、輝理の実家と婚約者から、間違いのないように、と世話を頼まれております。玖埜さんがよく噂なさる女教師が、まさか輝理のこととは、思いませんでした。東京では女子師範は男子と別の学校ですからね。私は一高から帝大に進んで、卒業後は会社勤めに入ったものですから、師範学校の方は、不案内でして」
立板に水の如く、滔々と話しながら、形だけの微笑を浮かべて、玖埜を貶めた。
男子の場合、高等学校と高等師範学校の間には、明確な序列がある。影臣が学歴を鼻にかけるところを見たのは、初めてだった。
無論、守護人として、この場を制するためである。理解はしたが、それでも輝理の胸は微かに痛む。女であるゆえに大学に入れなかったことを思ったのである。
「もう、お部屋へ入るだけですね。鞄ぐらい、ご自分で持てるでしょう。私は、輝理を送ってきます」
影臣は、鞄を輝理から取り上げると、玖埜に押し付けた。そして、輝理の背中へ手を回して向きを変えさせ、歩き出した。
「石を投げたろう。やりすぎではないか」
後ろに、玖埜の気配がないことを確かめた後、守護人をたしなめた。すでに、背中の手は外されている。
「貞操の危機でした。それを口実に下宿へ連れ込もうとするとは、私の考えが甘かった。今後、輝理様の学校でのご様子を聞くのは、難しくなりますね」
影臣は、悔いる様子もない。
「そんな大袈裟な」
「いいえ。接吻された可能性は十分にあります。巳喜君にだって我慢させたのに」
「接吻のみで子はできない、と言ったろうが」
影臣の足が止まった。輝理をまともに見る。
「そういう問題ではありません。輝理様の体は、子を為す道具ではありません。もっと、大事になさってください」
守護人の瞳に懇願があった。輝理は、相手が己に抱いているであろう情を、思い出した。
新しい環境に慣れることに精一杯で、このところ忘れていた。
「わかった。心配をかけた。この度は、助けてくださり、ありがとうございました」
と頭を下げたのは、同宿の娘の帰宅する姿が目に入ったからである。勤め人の退け時であった。
「あら輝理さん。その素敵な殿方が、噂の婚約者様ですの」
「いいえ。私は同郷の青柳影臣と申します。輝理の保護者を任じております。どうか、輝理をよろしくお頼みします」
素早く役柄を切り替えた影臣は、人の良さそうな笑みを浮かべた。
校門の前で、影臣は躊躇った。手には、帝都から取り寄せた土産物と、地元の銘菓を持っている。
輝理の勤め先である。
校舎も寮も新しく、敷地も広い。ほとんど男子のための設備ではあるが、一見した環境は良さそうであった。
ここの教頭を務める玖埜が、主に手をかけた時、もう少しで頭に怪我をさせるところだった。
玖埜の肩には打ち身が出来ていた。手当した賄いの克が告げてきた。
克が察した気配はないが、玖埜は影臣の仕業と疑う風であった。
以来、ふっつりと輝理の噂を止め、そもそも食事時が重なるのを避けていた。
その後、輝理と合わせて帰宅するのも止めたようだ。何度か、退勤時に居合わせたが、主は一人で歩き通した。勝手ながら、それはそれで別の心配が生じる。
ともかくも、当面の危機は脱したのである。これ以上の対策は、藪蛇かもしれなかった。
主の了解も得ていない。しかし、既に色々な伝手を辿って、面会の予約を取り付けている。今更、後戻りはできなかった。
影臣は、師範学校の校長に会おうとしていた。
各府県に設置された師範学校の長は、ほぼ全員が帝大を卒業している。ここの校長鍬原悟一も同様で、先輩後輩の仲となる。
尤も、影臣と鍬原の間には二十年ばかりの隔たりがあり、学制の変革期と重なるため、それぞれ卒業時の校名は異なっている。当然ながら、直接の顔合わせは初めてであった。
校長室は、男子師範学校の方にあった。職員室は、男子と女子部で別棟に分かれており、輝理と鉢合わせする恐れもない。
「やあ、青柳君。君のところの支社長から、よく話を聞いていたよ」
鍬原は、上機嫌であった。大体の用向きは伝えてもらった筈であるが、まずは快く迎えてもらえたことに、影臣は安堵する。
しばらくは、鍬原の同期や近い後輩の近況、出世した友人の学生時代のこぼれ話などを楽しく拝聴したが、やがて土産の蘊蓄から本題に行き着いた。
「それで、女子部の藤野先生と同郷なんだってね」
「はい。実家の方で付き合いがあり、面倒を見てやるように、と頼まれまして」
「よく勤めているよ。優秀な生徒が、より伸びる環境を整えてくれている」
もしかしたら、輝理の授業は難しすぎるのかもしれない。影臣は察したが、口を噤む。
「確か、郷里に婚約者がいるんだったかな。どんな男かね」
「まだ若く、師範学校へ入学したばかりです」
「師範学校の、学生か」
鍬原が仰け反った。伏せて起きたかったが、隠すわけにもいかない。年齢まで聞かれた。
「なるほど。君が、お目付けを頼まれた訳が分かったよ。私のところへ来た理由も、な」
「お察しいただけて、ありがたく存じます。念の為申し上げますと、婚約は家同士のことで、藤野と婚約者の間に何かがあった訳ではありません。婚約者は私とも顔馴染みで、経緯も承知しております」
と影臣は応じた。校長の反応を見る限り、面会して事情を説明したことは、正しい判断であった。未だ、輝理は巳喜八郎の身分について隠し仰せているらしいが、いずれ明かさずにはいられないだろう。事前に上層部が把握しているのといないのとでは、その後の対応がまるで違う。
「それにしても、君。藤野先生がお相手なら、青柳君でも良かったのではないか」
想定済みの質問だった。影臣は、予め練習した通り、屈託のない笑顔を作った。懐から財布を取り出す。
「既に、婚約者がおります。東京で教師を務めております。写真をご覧になりますか」
「見せてもらおうか。ほう、これは気の強そうなお嬢さんだ。schön だね」
「ありがとう存じます。ところで、私は教頭先生と同じ下宿におりまして」
玖埜が今後輝理に手を出すとは考えにくいが、逆恨みの恐れはある。こちらにも、釘を刺しておきたかった。
「世間は狭いものだな。彼もいい加減、身を固める歳だが、あれこれ好みが煩いらしい」
「それなら藤野の心配は要りませんね。先頃、手を握られたようなことを耳にしたものですから。よもや、師範の上に立つ方が、婚約者のある女性に手出しするなど、あり得ない。誤解があったのではないか、と諭したところです。藤野は箱入りで育ちましたもので、殿方の相手は不慣れと存じます」
鍬原は、頷いた。思い当たる節があったらしい。
「そういえば、近頃は退勤時に一緒のところを見かけなくなった。以前は、藤野先生が帰るのを見すましていて、約束でもしていたのかと思っていた。今後も、注意して見ておこう。と言いたいところだが、私はこの秋で西の方へ異動になる予定だ。後任にも伝えておくが、時期を見て直接会うといい」
「それは、おめでとうございます。お気遣いも、ありがとう存じます」
影臣は、定型の挨拶を返す。人事を教えてくれたのは、好意であった。
校長室を出ると、教頭の玖埜と出くわした。本能的に避けようとして踏みとどまり、影臣に向かって会釈する。
笑みが硬い。激しい逡巡が伝わった。
「そういえば、玖埜さんは、こちらの教頭先生をしておいででしたね」
影臣も、微笑と共に会釈を返した。
「本日は、お仕事でいらしたのですか」
聞かずにはいられなかったようだ。声が大きめであるのは、影臣の背にある校長室を意識したものか。書類箱を抱いている。
「いえ。共通の知り合いがおりまして、ご挨拶に伺ったまでです」
影臣は、それ以上詳しく明かすこともせず、素っ気ない挨拶をして立ち去った。口に出さずとも、あの場で顔を合わせただけで、求める効果は十分であった。
間もなく、玖埜は下宿を移った。賄いの克によれば、
「今のうちに、大いに遊んでおきたいとかで。どちらでも、大して変わりないと思いますがねえ」
とのことで、遊郭に近い方へ越したようであった。学校からも、少しばかり遠くなる。彼もそのうち異動するであろうに、影臣に気を遣った形である。
実は、影臣の方でも転居を考えていた。僅かではあるが、済まない気持ちになった。




