面倒な絡み
今日も、玖埜と帰っている。
影臣は、主と背中を並べて歩く男を、恨めしい思いで見つめた。
輝理によると、下宿が近いことから、自ら護衛を買って出たとのことだった。
近い筈である。玖埜と影臣は同じ下宿にいる。
「婿養子となる婚約者があることは、最初に伝えてある。影臣も仕事で忙しいだろう。私も少しは武道の心得がある。心配ない」
休みに落ち合った際、輝理は言っていたが、影臣には心配ばかりである。
未だ影臣は、玖埜に輝理の関係を、打ち明けていなかった。
玖埜は、食事で一緒になる度に、東京から新しく来た女先生が、どうしたこうした、とやたら話をする癖に、決して名前を口にしなかった。
初めに機を逸したのが、悔やまれる。もしや、輝理に手をつけた後、知らぬ存ぜぬを通すため、全て承知の上で惚けているのか、と疑心に駆られる程であった。
確かに、影臣も仕事の都合で、毎日送迎できないが、輝理が一言命じてくれさえすれば、退職して付き添うつもりはあった。それどころか主は、影臣の表立った送迎を控えるよう、命じたのだった。
「一応、私も一人前の教師であるからな」
自嘲気味に言われると、反論できなかった。一人前であろうがなかろうが、少しでも身分のある女人は、一人で出歩かないものである。玖埜が自称護衛を名乗れるのも、その流れだ。
他の女教師はどうしているのか、と見張りついでに観察すれば、確かに一人で退勤していた。
ただ彼女らは、地元出身であり、それぞれ知り合いや親戚の家に寄宿する、と聞く。顔見知りも多く、庭を歩くようなものである。
主と一緒にはできない。
現在のところ、明るく人目のあるうちに往復している。陰ながら見守るしかない。
心配は尽きないものの、密かに嬉しく思うこともあった。
輝理と影臣が共に過ごす時間が、格段に増えたのである。
帝都にいた頃は、寮へ籠りきりだった主が、何故休み毎に出歩くのか。影臣は尋ねてみた。
「下宿には、昼餉の用意がないからだ」
言われてみれば、その通りである。己も出歩くため、失念していた。
すると大概、駅前の方へ足が向く。以前は、師範学校の奥の方が栄えていたのだが、鉄道駅が開通して以降、賑わいが移動した。
ただし、寂れているというほどではない。元々、大藩のお膝元である。人も店もある。
今日も、駅前の食堂で昼食にした。
「巳喜さんから写真を送られた」
婚約者の鈴木巳喜八郎は、郷里の師範学校へ入学していた。
「影臣は、清可さんの写真を持っているだろう。会社の机に飾るのか」
「いえ、まさか。財布へ入れて、常に持ち歩いております。いつでも見せられるように」
向坂清可を溺愛する風に受け取られるのを恐れて、付け加えた。影臣と清可もまた主従関係にあるが、互いに恋情はない。婚約は、縁談を断るための偽装である。
写真は、輝理の撮影に同行した際、主から半ば無理矢理持たされたものだが、会社で婚約者の存在を示す証拠として、重宝していた。
「財布に入れるのは、良い案だな。しかし、できれば同僚には見せたくないのだ」
「何故です」
「師範学校の制服で写っている。ここの生徒ではないとはいえ、問題にされることもあろう」
「確かに」
影臣にしてみれば、巳喜八郎は遠い郷里で卒業まで寮に詰め込まれており、当面意識する必要のない存在だった。
輝理の場合、女子部とはいえ、師範学校の教師を務める身で、生徒と婚約を結んでいるとなると、要らぬ憶測を生む恐れはある。
「しかし事実ですし、いずれ分かることです。校長の耳には、入れておいた方が良いでしょう。その際、ご先代様のお勧めであったことも付け加えるとよろしいかと」
「あれは、自薦だ」
「承知しております。色恋ではなく、見合いによる縁組と申し上げたいだけです」
「それは、そうだな」
何気ない相槌であった。それでも影臣は、輝理が巳喜八郎に恋をしている訳ではない、と感じ、心の底で安堵した。
食堂を出て、商店街を歩く。
「しろさん、しろさん」
呼び込みの声がする。と思ったら、客を一人捕まえただけで中へ入ってしまった。通りすがりに覗くと、やたらもてなしている。坊主頭で晴れやかに笑うふくよかな男は、その店の上客なのだろう。
影臣は、輝理に付き従い、菓子舗で和菓子を土産にした。
「どんな人なの。お写真見せてくださいな」
「見せるほどのものでもありません」
職員室で、輝理は弱っていた。隣席の同僚が、婚約者の話を振ってきたのである。
彼女は、ここの師範の卒業生でもあり、来年奉職期限を迎えた後、親の決めた婚約者と祝言を挙げるために退職する予定だった。もう、半分方、心は嫁に行っている。
女性教師のほぼ全員が、婚姻か妊娠、あるいは出産を機に退職しており、それが若い女性教師しか存在しない理由でもあり、歳を重ねるにつれ、周囲から結婚または退職の圧力が増す理由でもあった。
婚約者の話も避けたいが、何より話しかけられることで、仕事が捗らないのが困る。
「棚家先生。試験問題の作成は終わったんですか。お手隙なら、こちらの仕事を手伝ってもらいますよ」
いつの間にか、笠元が二人の背後に立っていた。
「すみません。今しています」
ぺこりと頭を下げると、殊更音を立て机に向かい、ガリガリと書き物を始めた。しかし、笠元が離れたと見るや、ペロリと舌を出した。
「笠元先生、婚約者がいないから、私たちに妬いているんだわ」
「そんなこと」
いいかけた輝理は、その笠元と目が合ってしまい、気まずく口を閉じた。
笠元に婚約者がいないのは、本当らしい。
ただ、教師歴の長い彼女も、年齢は輝理や棚家と同じくらいである。今、婚約相手がなくとも、焦るほどではない、と輝理は思っていた。
輝理は婚約こそしているものの、結婚は五年後である。その間に、巳喜八郎が心変わりすることも、大いにあり得る。
「‥‥これを、丁度可知差異、Just Noticeable Differenceと言います」
説明しながらチョークで板書すると、輝理は脇へ寄って教室を見渡した。そのまま巡回に入る。
生徒達は、真面目にノートへ書きつけている。最初の頃は、筆を使う者もいたが、今では全員鉛筆を使っている。墨を摺って筆を浸す手間が、惜しいくらい、輝理の授業は板書が多い。
本当を言うと、板書は少なめにして、生徒達の顔を見て話す方に重点を置きたいのだが、それだと彼女らの頭に残らないような気がして、方向転換したのだ。
やる気がない訳ではなく、輝理の求める学習法に慣れていないのと、後は経済の問題である。
学費は無料と言っても、筆記具などの消耗品は自弁である。女子で師範学校まで上がることを許されたのだから、日々の糧に困るような家庭の出自の者はほぼいない。それなりの家から来ている。
とはいえ、どこから見ても富裕な家の娘は、市内にいくつもある私立の女学校へ通っていた。こちらは開学の精神からして基督教の伝道も兼ねており、信者で援助を得て通う娘がいるとしても、少数派であろう。
筆、あるいは鉛筆と帳面の消耗を減らす方に意識が行く生徒が、まあまあの数で存在する。輝理が使い終えた短い鉛筆をまとめ、ご自由にお持ちください、と添えて教室へ置いておくと、翌朝にはきれいさっぱり消えている。
書かずに覚えられるものなら、それでも構わないが、試しに質問してみた結果は散々であった。
ただ、何でも書けば良いと言うものでもなく、これでも輝理は、板書を少なくしようと努めている。それでいて最低限、板書さえ覚えれば試験に通るよう考慮するので、調整に気を遣う。
輝理の授業内容を十分に理解するには、板書を全て書き取った上で、輝理の話す内容を書き留めるぐらいの余裕が必要である。そこまでできる生徒は、あまりいない。
その稀な生徒が、松葉谷瑛である。今は板書を書き取っているが、既に半分以上写し終えている。そのほかに広げてある帳面には、輝理の話の要点が書き留められていた。
素晴らしい。輝理は、自ら求めておきながら、舌を巻く。是非とも、高等師範学校へ進学して欲しい逸材である。
玖埜との帰り道、話題に困ると、輝理は松葉谷を持ち出した。
「当人も勉学を好むようですし、進学できれば良いと思います」
「松葉谷くんは、操行も良いと聞いています。まず、合格するでしょう。高等師範への進学率は、校長の実績に数えられますが、僕らの点にもなりますからね。楽しみです」
他の目がない時の教頭は、時折野心を覗かせる。同じ高等師範の出ということで、輝理に仲間意識を持っているようだった。
すっかり、玖埜と帰るのが習慣となっていた。たまに残業せねばならない時も、ともすると職員室で待とうとする。
同僚への手前も具合が悪い。
櫛家などは、
「教頭と婚約してしまえば良いわ」
などと揶揄う始末である。輝理が婚約者の話をしたがらないのを、相手を気に入らないと解釈したらしい。
影臣には心配ないと言ったものの、実のところ、輝理はどうにかしてこの教頭を遠ざけたく思っていた。
「ところで藤野先生。かき氷でも食べに寄りませんか。近頃は、日も長くなって、この時間でも暑い」
ちょうど、辻に差し掛かっていた。あちらへ曲がるか、こちらへ進むか、分かれ道である。玖埜が立ち止まった。輝理は上司への礼儀上、行き過ぎたいのを堪えてやはり足を止める。
「では、こちらでお別れですね。私は下宿へ帰ります」
会釈して、返事を待たず歩き始めた。
「待ってください」




