新参の洗礼
帝都から、ほぼ一日中汽車に乗る旅の末に、降りた先には、雪があった。
郷里でも、この時期ならば雪が残っているのは普通である。
但し、ここ数年来、帝都に住んでいた輝理には、初めての土地ということもあって、目新しく感じられた。
空腹である。駅弁も持参の食料も、暇に飽かせ食い尽くしてしまった。
「早々に下宿が決まって、良かった」
「そうですね。着けば、何か食べさせてくれるでしょう」
郷里から遠く離れた地で、色々と伝手を辿った末、影臣の知り合いから紹介してもらった先に、落ち着いた。
高校の撃剣部の後輩である。父親が駅前でホテルを経営しており、その他にも土地を買って運用しているとのことだった。
直接の大家ではないのだが、輝理も影臣も、その伝手でそれぞれ下宿に部屋を取ることができた。特に輝理には、婦女子専用の家とあって、郷里の家族も安堵したところである。
帝都から遠く離れた北の地ではあるが、女子の私学校がいくつもあり、それで女子のみの下宿も成り立つようであった。
もちろん、男子の私学校も数がある。私学校は男女問わず、概ね基督教の信者によって作られていた。
その他に、輝理の赴任する師範学校や、全国に数校しかない高等学校も同じ地にある。
北の都とも言うべき地であった。
人力車で下宿に至り、下車すると、影臣も後ろで降りた。
「歩ける距離なのか」
「いえ。初めてなので、何とも」
輝理の人力車は戻ってしまったが、気付けば影臣の方は、空身のまま待っている。
「保護者として、ご挨拶を、と思いまして」
郷里を離れた地で、輝理と影臣の関係を逐一周囲に説明するのは、現実的でない。
今後、二人が会うに当たり、下世話な噂とならないよう、年上でもある影臣が保護者、という建前に、申し合わせていた。
輝理としては面白くない部分もあるが、理のあることである。
帝都では、女子は独立して師範学校を成していたが、ここでは男子の師範学校の女子部に過ぎず、給金も男教師より大分低く設定されていた。
全体に、男優位の世情である。この地に限ったことではない。
下宿の管理人は、大家に雇われた婦人とのことで、どことなく師範学校の舎監に雰囲気が似ていた。
「井角さんのご紹介だそうで。そちらが、洋太郎さんの先輩かしら」
影臣を見て言った。彼女は、紹介者の親戚に当たるらしかった。
ついてきてもらって正解だった。輝理は、洋太郎なる人物を知らない。
挨拶を終えて影臣が辞去すると、管理人は旅館を改装したという建物を案内しながら、手際よく規則を説明した。
「夕飯がいらない日は、朝に教えてね」
「風呂場から出るときは、湯船の蓋を閉めること。すぐに湯が冷めるからね」
「干し場は共用だから、腰巻きでも足袋でも名前を縫い付けるのよ。一度取り紛れると、戻らないわよ」
最後に部屋へ案内された。西洋式の扉がついた、個室だった。
寮で相部屋だった輝理には、嬉しい驚きであった。
中は畳敷きで、机と本棚があるだけの、狭い部屋である。布団を敷いたら端が折れそうだ。先に送りつけた荷物が、さらに部屋を狭くしていた。
だが、鍵をかけられる。郷里の自室でさえ、和室の襖で仕切られるばかりだったのだ。
「夕食は、今日からいただけますか」
「いいわよ。すぐ食べるなら、いらっしゃい」
輝理は喜んで従った。
影臣の下宿先は、輝理の近くにあった。道に慣れれば、歩いて行き来できる距離である。そのように、頼んでおいたのだった。
学校にも程近い。影臣の職場にもまずまず近く、紹介してくれた井角には、改めて感謝しなければなるまい。
夕食を取っていると、男が一人帰ってきた。
「あら玖埜さん。お帰りなさい」
賄いの婦人が声で出迎える。こちらは、輝理の方の管理人より、大分歳がいっていた。彼女は管理人ではなく、純粋に賄いのために雇われており、通いの身である。
「お克さん、飯を頼む。やあ、新入り君。ちょっと支度をしてくるよ」
自室へ上がる背中を見送り、婦人は食器を棚から取り出した。
「玖埜さんは、師範学校の教頭先生でいらっしゃいますのよ。元は静岡のご出身から、東京の高等師範をお出になったとか。お若いのに、大したことで」
膳の支度をてきぱきとこなしつつ、玖埜の紹介をする。この分では、影臣の身上も下宿中に知れ渡っていそうである。
玖埜はすぐに戻ってきた。洋装から、綿入れに着替えていた。
暦の上では綿抜きの時期だが、雪も残る寒さである。まだまだ冬物が手放せない。
食堂にも火鉢はあるものの、座敷全体を温めるには足りなかった。
「青柳さんは、東京から来たんだってね。僕も、高等師範を出てここへ来たんだ。懐かしいなあ」
影臣より、五つ六つほど年上のようである。玖埜は旺盛な食欲と共に、年初めに発足した第三次内閣の評判やら、去年創刊された当地の新聞記事やら、話題の豊富なことを披露した。
影臣は、早々に立ち去るのも失礼かと、食べる速さを調整しつつ、専ら聞き手に回った。それに、確認しておきたいこともあった。
「先生の先生だけあって、学識豊かでないと務まりませんね。お若いようですが、ご結婚は」
「いやあ、それが。仕事が忙しくて、なかなか」
「何を仰る。縁談を蹴っているのは、先生の方でしょう。この間だって、呉服屋のお嬢さんに見そめられたそうじゃありませんか」
給仕に侍っていた克が暴露する。玖埜は照れついでに、飯をお代わりした。
呉服屋の娘なら、なかなかの資産家であろう。やり取りからは、婚約者がいるようでもなし、誰か好いた相手でもあるものか。
「そう言えば、今度、うちの学校へも東京から先生が来るんですよ。青柳さんは、会社へお勤めでしたっけ」
「はい」
影臣は、短く応じた。輝理の話を持ち出すなら、ここだろうとは思ったものの、知らぬ間にあれこれ触れ回られることの微かな不快を先ほど自ら体験しただけに、主に同じ思いを味わせるには、忍びなかった。
郷里も含め、地方ではありふれた話ではあったが、長く帝都で暮らすうちに、その感覚を置き忘れてしまった。それに、郷里では詮索されるよりも、する側であった。
後に知れても、気まずいのは影臣だけである。沈黙を守ることにして、これ以上聞かれぬうちに、退散を決めた。
正門にかかる看板が、墨の跡も瑞々しいほど、真新しかった。
この春から名称が変更されるのに合わせて、書き換えたものである。その木板がかかる門柱もまた、新築十年も経たない新しさであり、校舎なども同様であった。
「とは言っても、当校は御一新後間もなくの創立で、元は藩校の敷地にあったのを移転する際、新たに全て建て直したのだよ。彼らの教育にかける意気込みもさることながら、実行を容易にする資力も見逃せないね」
校長への挨拶後、校内を一通り案内されていた。案内役の教頭は、三十路に入ったばかりとのことであった。校長が、聞かぬ先に、出自や学歴やらと一緒に紹介したのである。
最後に独身と付け加えたので、輝理は、自分には婚約者がいて、奉職期間終了後、相手は婿養子となる予定だ、と笑顔で返しておいた。
以降、校長と教頭の熱が下がったのを感じたが、輝理の知ったことではない。
既に教頭を案内役につけると宣言した手前、そのまま二人で校長室を出た。その教頭、玖埜只三郎は、切り替えの早い質で、快活に説明役を務めた。
「藤野先生も高等師範まで行かれたなら、東京でお会いしたことがあったかも知れませんね」
「東京も広うございますからね」
在籍年も違うし、校舎の敷地も違う。まず、今日が初対面である。
「女先生は、結婚して辞めてしまうから、長い人がいないんですよ。詳しいのは、白路先生くらいかな。あの人は地元出身ですし」
最後に職員室で、同僚と対面した。
白路は、四十路の男教師だった。校長と同年代の筈であるが、貫禄の代わりに若々しさを身につけていた。
彼が教師の最年長で、女子部創立以来の奉職とのことだった。校長よりも勤務歴が長い。生き字引のようなものである。
女子部であっても、半分以上が男の教師で占められていた。玖埜の言うように、女の教師は、男性よりも随分と若い人ばかりが揃っていた。それでも教師としては、輝理より先輩に当たる。
白路に輝理を引き渡して玖埜が引き上げると、他の教師も何となく寄ってきた。学生時代は囲む方の立場であった輝理は、久々に囲まれる側に立ち、緊張する。
「そんなに緊張しないでください。白路斉加年と申します。博物、化学、物理と、理科全般を受け持っております。校長から話があったと思いますが、藤野先生には、教育学全般を受け持ってもらいます。先生の机はこちらです。荷物入れは更衣室にあります。女の先生、笠元先生に案内してもらいましょう。先生」
「はい。承ります」
笠元は、既に輝理の側にいた。同年代に見えるが、態度に落ち着きがあった。
「藤野先生は、婚約なさっているのかしら」
更衣室で二人きりになると、荷物入れを教えるのも早々に、質問された。
「はい。国許におります」
「あらそう。では、なかなか会えないわねえ」
そう言った笠元の声に安堵と懸念の色を感じ、輝理は漠然と不安を覚えた。




