偽装の犠牲
澪の取り乱しようは、尋常ではなかった。
輝理が鈴木巳喜八郎と婚約を結んだ時の、己との違いに驚き、影臣は清可に制圧を先越されてしまった。
清可は、鎮静剤まで用意させていた。周到である。
しかし、駆けつけた輝理に暴言を浴びせるのを防ぐには、間に合わなかった。
「私が文を握っていたのに」
確かに、澪は、そう言った。
澪がしたことは、許せるものではない。
同時に影臣は、主が己を疎んじた訳ではないと知り、少しばかり嬉しくも思ったのである。
それなのに。
「申し訳ない。思慮が足りなかった」
輝理が、澪を庇うような言動をするのが、解せなかった。
たまたま澪が手紙を掠めたのが先で、やはり己を遠ざけたかったのか。初めは外出に誘うなど、勉学の妨げになるとして、後には、婚約者のいる身となり、男の守護人は不要と判断したからか。
影臣は、主とのやり取りの後、悶々とする心のうちを、僅かではあるが、清可に漏らさずにはいられなかった。
「違うだろう」
黙って聞き入っていた清可は、即答した。片手にグラス、他方に大黒様ラベルの酒瓶を抱えている。煙草がないのは、影臣に遠慮したらしい。
昼間と打って変わり、浴衣に角帯を貝の口に結び、歌舞伎の二枚目役者風に仕上がっていた。
二人で客室にあった。酒もグラスも影臣に用意されたものだが、やってきた清可が開封した。
琥珀色の液体だった。日本酒ともビールとも異なる、甘い芳醇な香りが漂う。
「ご当代様の責任感だな。現に、私たちは、澪に学校を辞めさせたい、と思っている」
日本酒よりも強い酒なのか、普段と違い、ちびちびと含むように飲む。
「輝理さんの意を汲んで、休学に留めてやるか」
目覚めた澪から、手紙の隠匿を白状させていた。事前に、人払いをした上のことである。
「大変、申し訳ございませんでした。影臣様を、お慕いするあまり、身をわきまえない事を致しました。二度と致しませんから、どうか、お許しください」
涙を流して訴える澪の姿は、哀れを誘った。
しかしながら影臣に、彼女を許すつもりは毛頭なかった。理由を鑑みれば、再び似たような罪を犯す恐れは、十分にあった。
清可はその場で澪に、次年度までの休学を承知させた。玄丈と地元方面には、もはや事後報告である。
その報告の際、清可は澪を守護人の配下から外す話も、併せてしたのである。もちろん、事前に影臣の了承は得ていた。これには、一つ条件が付いていた。
澪には、配下から外した事実を知らせない。
元々、高等師範学校を卒業した後は、側仕えが難しいと見られていた。教師の配属は国が決める。藤野家にも青柳家にも、国の人事に口を出せるほどの力はない。
また、政策的にも、女性二人を揃って同じ学校へ赴任させることは、考えられなかった。
そして、輝理に残っている在学期間を澪が休学で過ごすならば、配下の仕事は実質的にここで終了となる。
それでも敢えて外したのは、影臣の意向でもあり、澪に対する罰でもある。
罰を当人に知らせないのは矛盾するが、影臣の婚約を聞いた時の反応から考えれば、騒ぎを抑えるためには致し方ない措置であった。
婚約と言えば、澪は二人の関係について、かなりのところまで半信半疑だった。
「この度の姉とのご婚約は、偽装ですわよね」
勘が鋭い、というよりは願望であろう。予想のついた事でもあり、影臣は、全く動揺しなかった。
「失礼な。これでも遠慮しているのに。ねえ、臣様」
清可が体に手を回し、接吻をねだるように、顔を上向ける。口元に笑みを浮かべているが、目は笑っていない。背中側にある指が、影臣を軽くつねった。
存外に、痛い。彼女の意図は、その前から察していた。
「う。こらこら。人前で恥ずかしいじゃないか、清可」
影臣も微笑みつつ、清可の頬を掌で覆い、音を立てて額へ口付けた。
触れるか触れないかの距離にある掌に鳥肌を感じ、内心で苦笑する。歯が浮くとは、このことであった。
「あっ」
澪が短い悲鳴を上げた。見れば、青い顔をしている。
これは効いた。澪にとっては、休学よりも重い罰であろう。内心に留めてはいるものの、同様の罪を抱える影臣には、その重みがよくわかった。
そしていずれ、己も同じ罰を喰らうことを知っていた。
「おや。まだ体が慣れないようだ。横になるといい」
妹に与えた効果を見取り、素早く身を引いた清可が、強引に澪の上体を横たえた。
澪は、茫と宙を見たままだった。
こうして澪は配下から外れ、清可は澪の休学手続きや寮引き上げのため、帝都へ戻ることになった。
「打合せの時点で、ここまで読んでいたのか」
影臣は、清可から酒瓶を取り上げて、棚へ戻す。まだグラスに酒が残っていた。
「全体の流れは、事前に説明した通り。進行が早まっただけだ。お陰で、余分な薬を使わずに済んだ。互いのために、良かったと言うべきだろう」
「そうか」
詳しくは、聞かなかった。青柳家に秘伝の薬があるように、向坂家にも秘伝の薬があるに違いない。
例えば、寝たきりにするような。
「これで、輝理さんの帰郷に付き添えるのは、臣しかいなくなった。ちょうど、休暇も取ったと言っていたな」
「この機会に、改めて婚約や澪の件を説明して回る。外向けに、ある程度の形も整えなければならない」
「臣。輝理さんから、奪うなよ」
清可の顔は、あくまでも真面目である。素面にしか見えない。
「何を。俺は、そんなことはしない」
戸惑う影臣を前に、清可が残った酒を一気に呷った。
「そうか。なら、いい」
次いで体のあちこちを探り、諦めて席を立った。
「どうも、煙草がないと、落ち着かん」
「あれも、阿片のように、中毒性がある。呑みすぎるな」
阿片は、隣の大国であった清が、凋落する一因を作った薬である。日本も欧米に負けじと、機に乗じて版図を拡大しつつあった。
「キセルと紙巻きで、そんなに違うものか。御一新前と変わらないよ」
清可は明るく言い残して、部屋を出た。
「キセルで呑んでも中毒になる、という意味で言ったのだが」
影臣が呟いたのは、扉が閉まった後であった。
主から避けられている気がする。
澪との一件から、影臣は輝理と、何となしに気まずい雰囲気であった。
そんな中、帰郷のため、伏せっている澪の代わりに、供をすることになった。
主と共にいることは、守護人の喜びである。とはいえ、二人きりの旅で、終日を沈黙のうちに、汽車へ閉じ込められるのは、神経に堪えることだった。
移動の慌ただしさに紛れ、澪の休学と、配下から外すことを伝え損ねていた。
「交換しないか。賄いではなく、私が握った物だが」
気付けば輝理が、握り飯を差し出していた。やや小ぶりの山が三つ並ぶ。影臣の耳に、主の言葉が反響する。
『私が握った』
輝理の手になる飯である。是非とも、口にしてみたい。
「久しぶりに、食べてみたい」
続く主の言に、弁当を交換した昔を思い出した。
輝理の叔父、継尚が、当時の藤野家当主だった輝晃を襲った事件である。
襲撃の日、輝理の弁当には、毒が仕込まれていた。作ったのは、継尚側に抱き込まれた奉公人である。見張りの目を盗んで影臣が弁当をすり替えたことにより、輝理が毒を口にせず済んだのだった。
「思い出されたのですか」
輝理は、当時の記憶を失っていた。しっかりして見えたが、八歳かそこいらである。受けた衝撃は大きかったろう。
聞いてみると、一部を思い出したに過ぎなかった。それも、事件にあまり関わりのない部分である。
ただそこに、己の姿があることを知って、影臣は密かに満足を覚えた。
輝理の手になる物を口にするのは、初めてである。
単なる握り飯が、ひと噛みごとに味わい深く、極上の品に感じられた。
一方で、影臣の握った飯は、輝理には大き過ぎるようであった。中の一つを、半分に割って戻された。残りは食べてもらえたが、頬に飯粒が残った。
以前に影臣の握り飯を食わせた時も、同様のことがあった、と思い出す。
「失礼します」
飯粒を取り去り、己の口へ入れた。
頬の感触は、子供のそれには及ばぬものの、女人らしく柔らかく感じられた。
輝理が恥ずかしがって頬を染めるのを、幼時の記憶と重ね可愛らしいと見惚れた影臣は、そこで己の任務を思い出した。
澪が罪を認めたことと、それに対する処置を聞かされた輝理は、特段の感想も述べなかった。状況からして止むを得ない次第であり、今更反対しても覆らないことを、承知していた。
これまでのやり取りの間に、気まずさが、すっかり解消していた。
汽車の旅は、長い。
輝理は、緊張が解けたせいか、寝入ってしまった。
それもまた信頼の証であるように思われて、影臣は嬉しく寝顔を見守った。




