婚約の裏側
夏期休業に、輝理が向坂家の別荘へ招待されたのは、影臣が勤めにより長く休めないためもあったが、清可の采配でもあった。
偽装婚約に向けて、いよいよ工作を始める魂胆である。
影臣から持ちかけた話ではあったが、その後の動きは鈍かった。
会社の顧問から話が流れたのか、直属の上司からの縁談攻勢が、ぴたり沙汰止みとなったからである。
その代わり、交際相手とはいつ婚約するのか、と問われることが増えた。
相手も職業婦人で多忙ゆえ、と適当にお茶を濁していたものの、徐々に煩わしくなるのは先の縁談と同様である。
これで婚約を交わしたら、次はいつ結婚するのか、結婚したら、次はいつ子が生まれるのか、子が生まれたら、次の子はいつになるのか、と延々問いは続くのであろう。
主の輝理が、ひとまず婚約だけでも、と結んだ理由が、腹に落ちた。
断れない縁談を強いられるよりは、問いを浴びせられる方がましである。影臣も、大分諦めがついてきた。
輝理へは、変わらず折りに触れて文を書き送っていた。返事は澪からしか来ない。
偽装婚約の許可を、事前に得ておきたかった。
しかし、影臣に恋慕の情を抱くらしい澪の目に触れると思うと、直截には書けない。遠回しな仄めかしになってしまう。
「夫婦が互いに子を望まない婚姻なら、認めていただける組み合わせもあろうかと存じます」
書いてみたが、唐突に過ぎる。続きも思いつかない。影臣は、びりびりと破いて屑にする。
これまでにも、己の文が澪に見られることは、想定していた。
輝理の予定を把握し、どのように守護するか、あるいは、どのように対応したか、影臣よりも澪の方が、事情に通じている。役目については、主を通すよりも、守護人とその配下の間で直接やりとりした方が早い。
当然、影臣は、輝理と澪、それぞれに分けて手紙を書いていた。しかして、返信は澪のみからで、それも輝理に書き送った内容にも触れている。
二人とも、寮暮らしである。
影臣も、学生時代に寮生活を経験している。郵便物は、各自で取りに行く決まりであったが、朋友がついでに持って来てくれた事も、確かにあった。
輝理としては、読んだ印に返事を送るのが面倒で、どうせ文をやる澪に、ついでに書いてもらおうとしたのだ、と思い込んでいた。
まさか、目に触れてもいない可能性があるとまでは、考えなかった。
恋情に駆られた澪が、寮の仕組みを利用して影臣の文を独り占めにしたものか、輝理が守護人からの手紙など取るに足らぬ、と打ち捨てたものか。
せめて前者であって欲しい、との思いもまた、思い込みかもしれない。
いずれにせよ、主を側で守る絶好の位置に居る澪を、役目から外す決断は下せなかった。
代わりは、いない。
学校が夏期休業に入って、しばらく過ぎた。
「コンヤク トトノウ モトム ウチアワセ」
職場へ、清可が電報を打ってきた。日時指定の場所は、別荘の近くである。
「いやあ、遂に、青柳君も婚約か。色々忙しいだろうから、ついでに休暇を取ればいい」
上司がにこにこと肩を叩く。
受取人の影臣より先に、会社中が電報の内容を知っていた。顧問からは、祝儀まで貰った。
打合せは、会社の休日に設定されている。休暇のことはひとまず置いて、影臣は指定の店まで行ってみた。
鉄路が伸び、別荘地付近まで汽車で行けるようになったのは、便利であった。
店は、向坂家の別荘がある地から、やや離れた城下町にあった。
汽車を降り、駅から人力車を雇う。
今や懐古の情を呼び起こす、立派な和風建築からなる座敷には、既に清可が待っていた。
卓上には、ビールの空瓶と鯵の骨が載っている。和食である。
影臣と併せて酒と食事の注文を済ませると、清可が煙草に火をつけた。今日は天狗印の箱だ。
「兄様から許可を得た」
「ご当代様は」
「無論だ。臣からも連絡したと聞いたが、兄様の方でも、青柳家と藤野家から許可を貰っている。父からも。ただし、帝都にある間、という縛りをかけられた」
「構わん。地元では、必要ないだろう」
向坂家を含む三家の特別なつながりは、細部はともかく、地元民に周知のことである。
影臣と清可が婚約披露などすれば、却って詮索が激しくなる。
「そうだな。澪の件がなければ、私もそれで良いのだが」
と、主の顔を避けて煙を吐く。酒だけ先にやってきた。口に煙草を咥えた清可が、二人分を猪口に注ぐ。
「臣。輝理さんは、お前が文を出していることを、知らなかったぞ。待て。とりあえず、飲め」
顔色が変わったらしい。猪口を唇へ押し当てられた。アルコールのひんやりした感触が、喉を滑り落ちる。一瞬だけ、頭が冷えた。
「澪が、隠したということか。いつから」
「恐らくは、寮へ入って直ぐではないか。輝理さんも、はっきりと認めなかった。長年に亘る話だ。お前から文のないことが当たり前に過ぎて、理解できなかったかもしれん」
身の内から、熱が迫り上がる。思い返せば、入寮したての頃、確かに輝理は返信を寄越していた。
それがなくなった頃からとすれば、実に五年以上もの間、主との往信が途絶えていたことになる。影臣は、気付かなかった己の迂闊さを悔いた。
「女子寮だからな。臣が気付くのは無理だろう。輝理さんも呑気なことだ」
「輝理様は、悪くない」
清可は、酒を注いだ。
「わかった。まずは澪が悪い。妹が迷惑をかけて済まなかった。飲んでくれ」
影臣は、勧められた杯を呷った。空き腹に、酒が沁みる。
「澪を、配下から外したい」
「だろうな。だが、難しい。高等師範を、ただ辞めさせる訳には、いかない」
官立師範学校には、国から様々な支援が入っている。だからこそ、卒業後の奉職義務も課されているのである。
「なあ、臣。どの道、あと一年だ。奉職先まで同じにはならん。敢えて外さずとも、自然と距離を置かせることはできる」
「それまで知らぬ顔をしろ、とでも言うのか。妹だからと」
「影臣様」
清可は、まだ長い煙草を揉み消した。
「私も澪も、望んであなたにお仕えしておりますが、家族としては、違います。父も、兄様も、私も、妹を守護人の配下に付けるより、とっとと何処へでも縁付けたかった」
料理が運ばれて来た。綺麗に並べて載せられた盆ごと、卓へ置く。
店員が去るまで、共に口を利かなかった。
「済まない。言い過ぎた。日頃、付き合ってもらうことにも、感謝している」
清可が箸を取る。
「こちらこそ。臣に仕えるから、生涯独り身で暮らして怪しまれない職にも就けたし、輝理さんの近くに居られたからな。私はお前に感謝しかない。妹のことは別だ。まず、食べよう」
若干聞き捨てならない言葉が耳に入ったが、影臣も食事を始めることにする。和定食は、天ぷらも刺身もついて、目にも楽しい豪華な品であった。
「学校を辞めさせる方策より以前に、まず配下として失態があった、という口実が必要だ。輝理さんが気付いていないなら、証拠を押さえるのも難しい。本人が素直に認めるとは思えないからな」
ひとしきり食べた後、清可が話を元へ戻す。影臣は、黙って聞き手に回った。
「だから、まず私たちが婚約して見せて、様子を窺う。澪が婚約する気になったら、臣への執着が薄れて、文を渡すかもしれない。寮内に護衛は、いた方がいいだろう」
「同時に、輝理さんにも働きかけて、文を隠した証拠を得る。澪が反省すれば良し。しなければ、その時は、輝理さんと距離を置けるよう手を打とう」
「どうやって」
大方食べ終えた影臣は尋ねた。清可は落ち着いて答える。
「食べる間に思い出したんだが、休学制度がある筈だ。いきなり退学は無理でも、病気などを理由に一時的に通学を止めることはできる。何なら輝理さんが卒業してから、戻せばいい」
「従うだろうか」
影臣にしてみれば、輝理宛の手紙を隠匿したことが既に、主への叛逆である。
既に罪を犯した人間が、その罪すら認めないのに、己の意に反する指示に従うとは、思えない。
「従わせるさ」
清可もまた、食事を終え、新たな煙草に火を点けた。
「うちは医者だからな。いくらでも、やりようはある。向坂家の名誉にかけて、この度の不始末のけりは、つける」
ふうっと吐き出した煙の向こうで、清可の目が光った。
清可と別れた後、婚約にかかる手続きの名目で、会社に休暇申請の電報を打った。向こうで予想していたのか、思ったより早く許可が出た。
表向きはめでたい限り。内実は、随分と食い違っていることである。
その日は、食堂の近くに宿を取り、翌日、別荘へ出立した。
仮初ではあるが、澪の手前もあり、身なりを整えた。手土産も用意した。
出迎えたのは、主の輝理であった。
久々の対面が、他の女との婚約を願い出る日と重なったのは、皮肉であった。影臣は、己の恋情を改めて自覚した。
口に出さないのは当然であるが、その上に悟られてもいけない。後ろめたさで、主の顔をまともに見られない。
「影臣様」
こちらを見る澪の顔を見て、理解した。己の胸にある感情と同じものを、この配下も内に抱いていた。
決して叶うことのない想い。鏡を見るような心持ちであった。
一瞬、澪が輝理に対してしでかしたことを忘れ、憐憫の情が起こった。
「兄が待ち申しております」
清可が呼んだ。既に、玄丈との打ち合わせは済んでいる筈であった。
澪が、この場に立ち会ったのも、清可の誘導である。
「では、ご挨拶に伺います」
思い切って、主の顔を見た。途端に、引き返したくなった。
清可とは何の情も交わしていない、ただの方便です、と説明したかった。どの程度まで輝理が知っているか、影臣は聞きそびれていた。
澪の気配で我に返る。伸ばされた腕を、さりげなく避ける形で、影臣は踵を返した。
「影臣様、私も」
思惑通り、付いてくる。
主の方は、動かなかった。
清可は、輝理が立ち会っても構わない、と言ったが、影臣は、嘘でも他の女を請うところを、見られたくなかった。
だから、安堵した。




