夜半の影
はっ、とした。
寝落ちしていた。
慌てて辺りを見回す。異変はない。
動悸を抑えて耳を澄ますと、先と変わらぬ寝息が三つ、確かに聞こえた。
藤野家の親子は無事である。ほっ、と息をつく。
その息を吐ききらないうちに、雨戸の向こうで、微かな気配を感じた。
息を詰める間に、既に、道場の方へ遠ざかっている。
ここを離れて良いものか。影臣は迷う。
出入りの音がした。道場の辺りだ。一方で、影臣のいる辺りには、人の近づく気配はない。
木刀を掴んで立ち上がった。懐には、小刀を忍ばせてある。これを出すのは相手次第である。
できれば使いたくなかった。だが、いざという時に躊躇っても、いけない。
片手で、そっと在処を確かめた。
足音を忍ばせて、道場へ向かう。引き戸の向こうに人の気配がする。
複数である。
経四郎を呼ぶべきであった。今からでは、遅い。
灯りが点いた。
暗闇に潜む影臣は、戸の隙間から漏れる微かな光で、辺りを見ることができた。己の周囲に敵はなく、全員が道場の中にいる、と知れた。
不意打ちなら、勝てるかもしれない。勝つのは無理でも、騒ぎ立てて、藤野家の三人が逃げる隙を作れれば良い。
影臣は、頭の中で算段をつけ、同時に移動を始めた。
灯りは手燭程度である。その仄かな光が、密やかな気配と共に、徐々に近付く。
影臣は、敵の気配をかたどろうと、集中した。
戸が、開いた。
影臣は、無言で思い切り木刀を突き出した。
突きは、空振りだった。
目を光で射られたかと思うと、体術で床へ伏せられた。
懐から小刀が飛び出たのを、軽く蹴られて向こうへやられる。
ひと思いには、殺されなかった。何の目的だ。藤野家の後継に、決まっている。
終わった。
影臣は、せめて最期に暴れようとしたが、びくとも動けなかった。木刀は、既に手から離れていた。
「殺気を漏らすな馬鹿者。丸見えと変わらん」
灯りが引いた。
「そう、叱るな。一撃は、良かったぞ」
藤野輝晃が、手燭を持って立っていた。
影臣を押さえるのは、その守護人、伯父の影治である。影臣は、一気に力が抜けた。
抵抗を止めた途端に、伯父の手が、体から離れた。
「ちょうど良い。これから風呂を追い焚きする。俺の部屋へ行って手拭いと、ご当代様の着替えを見繕え。足袋も忘れるな。釜に、湯が残っているだろう」
影臣が起き上がる間に、輝晃が手燭を増やし、小刀と共に渡してくれた。
「世話をかける」
藤野家当主の柔らかな声音に、安堵感を覚える。
「いいえ。こちらこそ‥‥」
影臣は、言いさして目を瞠った。
着物が、酷く汚れていた。ゆらめく蝋燭の灯りに照らし出された茶色の濃淡が、泥ばかりではないことを、影臣は経験から見てとった。
ここ暫く、秋の入口らしい上天気が続いていた。ぬかるむ道など見当たらない。
伯父を見る。主よりも、酷い汚れようであった。着物ばかりか、顔まで飛沫がかかっている。
そして重要なことに、二人とも、怪我を負った様子はなかった。
「急げ。木刀は、もう要らん」
動きが止まっていたらしい。
影治が、低く急かした。普段なら厳禁であったが、何かしら問わずには、いられなかった。
「不要ですか」
「心配ない」
輝晃の優しい声音と微笑みが、どういう訳か、今度は恐ろしく感じられた。
伯母の三智とその主である藤野継尚、そして向坂家の明と士朗の死体が見つかったのは、翌日のことである。
検視は全て向坂玄哲が担当したらしい。
漢方も蘭学も修めた玄哲は、御一新後になると、奉行所に代わって発足した警察から頼られるようになった。
さぞかし、警察にも顔が効いたことであろう。影臣は、皮肉にも、そんな風に考えて、自ら恥じた。
弟妹の解剖をするだけでも辛いことである。その上、もしかしたら死因を誤魔化さねばならなかったとすれば、影治か輝晃か知らぬが、非常に酷な仕事を強いたことになる。
警察の捜査結果の発表では、継尚を始め、全員が事故死と判定された。
噂は、立った。
真に事故死だったとしても、四人もの急死である。
加えて、逮捕には至らなかったが、同時期、弁当の管理が行き届かなかったとて、藤野家から数人の奉公人に対し、いちどきに暇を出したのであった。
和加も、その一人だった。輝理の弁当を詰めた当人であった。
実家とも絶縁状態だった彼女が、その後どうなったのか、影臣は知らない。地元を去ったことは、確かである。
新聞記者と称する、如何にも怪しげな風体の男たちが、両家まで取材に来た。
藤野家や青柳家の当主が、彼らに何を話したか、影臣のみならず、両家の子供達が聞かされることはなかった。
だから、彼らが道端で待ち伏せて、金平糖などを餌に質問を投げかけても、満足するような答えを聞かせることはできなかった。
尤も、知っていたとしても、頼ですら、余所者に話しはしなかったろう。
後に、青柳家は影治ではなく、桂明が対応した、と聞いた。知らぬ存ぜぬで通したと思われた。
あの夜、なるべく静かに動きはしたが、灯りを点けて出入りし、風呂まで焚き直したのである。
にもかかわらず、藤野家の三人はもちろん、桂明も経四郎も、他の奉公人も、誰一人姿を現さなかった。思い返せば、奉公人が様子を見に来ることすらないのは、不自然であった。
予め、籠るよう命ぜられていたものであろう。こちらが返り討ちに遭った場合の指示も、勿論、あったに違いない。
記者たちは、向坂家や分家の沢山ある鈴木家にまで足を運んだ。だから、噂が余計に広まったのだ。
しかし、警察が発表した事故死以外の記事は、出なかった。
日ごろ、怪しげな風説も記事にする新聞には、珍しいことだった。
これも、玄哲だけでなく、藤野家や青柳家が裏から手を回したものであろう。
新聞は止められても、人の口に戸は立てられない。
影臣も、会う誰彼から、質問を受けた。
前日、弁当を食わずに早退したことで、同級生や、初等科の子供たちの注意を引いてしまっていた。
稲の刈り入れが始まる農繁期であるにもかかわらず、小学校の出席率が異様に上がったほどである。
「あの日、午後から殺しに行ったのだろう」
そんなことを、平気で尋ねてくる。子供だから、遠慮がない。
影臣に語れることは、ほぼないに等しかった。
あの日、伯母と伯父の間に何があったのか、本当のところは知らされていない。
事故死とは、信じていなかった。夜の闇に浮かんだ、泥と血に塗れた二人が、脳裏に刻まれていた。
二人とも、言い訳も説明もしなかった。
輝晃は、風呂に入って着替えると、影臣に送らせて藤野家へ戻り、徹夜していた治明と明三に迎えられたし、影臣が家へ戻った時には、影治も風呂上がりで着替えを終えていた。
翌日学校へ登校できるよう、すぐさま寝るように命じられ、ただでさえ疲れていた上、徹夜しかけていたので、刻限ぎりぎりまで熟睡した。
話を聞く暇などなかった。
輝理もまた、同様に質問責めの毎日を送っていた。
叔母叔父を亡くした澪に、朝から通学の途上で問われ、清可や和実に止められるというやり取りが連日に亘った。
校舎は違えど、学校にいる間の苦労が察せられた。
人の噂も七十五日、という諺がある。
影臣は、お題目のように頭の中で唱えながら、いつ終わるとも知れない質問や決めつけを流し、黙殺し続けた。
そのうち、政府転覆を狙った大きな事件が発覚し、世間の注目が一斉にそちらを向いた。
犯人が地元の県令をも標的としていたことが、近隣の大人と子供の興味を惹いた。
新聞は毎号でかでかと記事を載せ、人の噂も、この大事件で持ちきりとなった。
その事件が落ち着かぬうちに、また似た事件が起こり、次々目新しい話題が持ち上がるにつれ、影臣たちへの詮索は、いつの間にか消え去った。
影臣が十二となった正月、輝理は藤野家当主に就任し、彼はその守護人に任命された。
当然の思いだった。あの出来事を共に乗り切ったのだ。
それにしても、化粧して着飾った輝理が、見違えて綺麗であったには驚いた。あまつさえ、微笑まれた日には、勝手に顔が赤くなってしまい、往生した。
女は化ける、と教わった。その実例が、目の前にあった。
尤も、翌日には、普段通りの輝理に戻っており、影臣は残念なような、嬉しいような、不思議な気持ちとなった。
変わったことと言えば、影臣に対する話し方である。
輝理は、目上の者への物言いから、目下に対する言い方へと変えていた。前当主の輝晃の言葉遣いを真似ているようで、微笑ましくもあった。
影臣も、呼び捨てを様付けへ変えることから、立場の違いを意識するように心がけた。




