主の縁談
師範学校へ進学してからの輝理は、一層勉学に集中しているようだった。
上京してから、寮生活のために、会う機会もない。普段の様子は、配下である澪からの手紙で知るほかない。
影臣からは、報告も兼ねてしばしば便りを出すのだが、文が届いたのも、初めのうちだけだった。
どうやら、返信を全て澪に任せているらしい。勉学に注力するためとはいえ、筆無精にもほどがある。
外出に誘った際も、当日になって現れたのは、澪一人であった。
「ご当代様は多忙のため、本日お越しにならないそうです」
その日は仕方なく、配下を帝都観光へと案内する羽目となった。澪が喜んでいたのが、まだしもである。ただ、その姿を同輩に見られ、誤解されては堪らない。
影臣は、一日落ち着かない気持ちで過ごした。幸い、誰にも見咎められなかったようだ。
以降、誘い出すことを断念した。
その輝理が、縁談を受けると言う。青天の霹靂であった。
向坂家の別荘で男に迫られたのを見て、咄嗟に追い払ってしまった。
主は気にするなと言ったが、あの男は枯れても帝大生だった。郷里に、それ以上の独身男性がいるかどうか。
影臣には、思い当たる人物がいない。
あれは、失敗だったかも知れない。
しかも、釣書だけで決めるつもりとか。自棄になるでもなく、淡々と述べる辺りが、主らしかった。
話を聞くに、清可や澪の縁談が決まらないことに責を感じ、先んじて相手を定める気になったようであった。
彼女らの兄である玄丈の圧力も多少はあったろうが、つまりは、影臣の責である。
一高時代に迫ってきた、婿漁りに目を輝かせる女学生には幻滅した。主が男を追いかける性質でないことは、承知している。
影臣は、そのことを誇らしく思っていた。
しかしながら、縁談となると、これまでまるっきり男の影がなく、空想上の恋愛にうつつを抜かすでもなかった輝理に、男を見る目が備わっているかどうかは、疑問であり、問題でもあった。
幸い、輝理は釣書を見せると言うので、影臣は藤野家を訪ねることにしたのだ。
まさか、あんな若造に、主を掻っ攫われるとは、思いもよらなかった。
「おはようございます、輝理さん。鈴木巳喜八郎です。守護人の、青柳影臣さんには、ご無沙汰をしております」
巳喜八郎は、最初から、影臣に挑発的な視線を送ってきた。
備の次春と同窓に当たり、前当主である輝晃から学費を援助される身であるという。まだ、何者でもなかった。
主は、そんな若輩者にも誠意を持って向き合った。
巳喜八郎は、喜び勇んで話し続ける。終いには、顔を赤くして、本当の夫婦になりたい、と言い出した。子種を提供するのみならず、互いに情愛を通わせる意味である。
青臭い、と心の内で冷笑した影臣に対し、輝理が思いがけない反応を示した。
主は、顔を真っ赤に染めたのである。のみならず。
「私は、そのつもりでいる」
返事をした時には、落ち着いていたが、求婚を受け入れたも同然の言葉だった。巳喜八郎も同様に解釈したと思しき様子で、礼を言う。
「落ち着き給え。まだ承諾した訳ではありません」
つい、割り込んだ。輝理が当主であっても、戸籍上は、戸主である父、輝晃の許可が必要だ。
勝手に当人同士で決められない。
巳喜八郎は、不満顔を隠さない。世間には、既に一人前として働く者もあるのだが、まだ子供である。
改めて、集められた釣書を読む。どれも、輝理には不足に見えた。
あの帝大生にすべきであったか。しかし、婚約前に手を出す不埒な輩であった。
仮に、いま一度、あの場に戻っても、やはり影臣は二人の間に割って入ったであろう。
「どうだ。私は、彼で良い。影臣は、やりにくいか」
巳喜八郎を帰した後、主に尋ねられた。主が選んだのなら、従うべきである。
「私がお仕えするのは、輝理様にございます」
影臣は釣書を片付け、輝理に手渡そうとした。指先同士が触れ合い、思わず書を取り落とした。
体のうちを、雷が駆け巡ったようだった。蝉の声も消え、畳も柱も失せた中に、輝理だけが居る。息が苦しかった。
「駄目だぞ、影臣」
輝理が言った。影臣は、我に返った。部屋の中が暑い。
「何もしておりません」
咄嗟に返した。主は、冷静に指摘した。
「釣書が落ちている」
「失礼しました」
急いで釣書を拾った。主と目を合わせられなかった。
形ばかり辞去の挨拶をすると、影臣は、逃げるように門を出た。
すると、家へ向かう道の途上に、巳喜八郎が待ち構えていたのだ。
「青柳さん」
名を呼ばれて、足を止めざるを得なかった。今、最も会いたくない相手だった。
「鈴木さん」
影臣は、敢えて屋号を避けて呼んだ。分家の多い鈴木家である。
お前など、有象無象の一人に過ぎない、との意を込めた。
「僕は、負けません」
巳喜八郎の顔が、みるみる紅潮する。
「次春くんから聞きました。輝理さんは、あなたと離れられないって。でも、僕は身も心も挙げて輝理さんの一番になります。青柳さんにも、必ず認めさせますから」
失礼します、と言い捨てて、巳喜八郎は影臣の脇をすり抜け、走り去る。
呼びかけに込めた意味を、汲み取ったようには見えなかった。藤野家当主と青柳家の守護人の関係を、正確に理解しているとも思えない。その辺りは、まだ婚約者でもない彼に、次春が曖昧に説明した所為であろう。
それらの事情を全て含めた上で、彼の宣言は何処か影臣の心に響くものがあった。
影臣は、しばしその場に立ち尽くした。
「何なんだ、あれは」
声に出して呟いた頃には、先ほど輝理に触れた衝撃が、身の内から消え去っていた。
「ははは。純な少年ではないか。輝理さんには案外、年下の方が合いそうだ」
清可は笑い転げた。細い指に挟んだ紙筒棒の先からも、口の中からも、ふはふはと煙が出て影臣を襲う。
近頃流行りの、紙巻煙草である。キセルと違って、道具が少なく、持ち運びが楽だと評判だ。
大学でも、煙をたなびかせる学生を、時折見かける。当初は輸入物が幅を利かせていたが、今では国産物も出回っていた。
もとより煙草を呑まない影臣は、煙を吸って咳き込んだ。
「しかし、目指すところが師範学校止まりでは、輝理様が嫁すには勿体ない」
呼吸を落ち着けてから、返す。
卓の上には、天狗印の煙草の箱の他に、鉄鍋に入った牛鍋と、麦酒瓶とグラスがあった。いずれも、ほぼ空である。
影臣と清可がこうして会うのは、よくあることだった。
名目は、輝理の守護に関する定期連絡である。
実際のところ、清可は女学校に奉職して側におらず、主は寮住まいで危険も少ない。一応、同輩として澪もいる。清可と影臣が会っても、連絡するほどの話は、まずない。
それでも集うのは、帝都において、清可が忌憚なく話のできる、唯一の相手だからである。
二つ上の彼女は、もちろん影臣を主として立ててくれてはいるものの、このように二人きりの場では、敬語を使わない。そんなところも、気楽だった。
これが澪相手だと、互いに気を張って疲れてしまう。
彼女は寮暮らしの学生である。外出にも手続きが要る。それに澪が抜ければ、その間、輝理を一人にしてしまう。
「だが、造り酒屋の帝大生を退けたじゃないか。それ以上を望むなら、華族様しかおらぬ。あの方々は、婿入りなどしないだろう」
「それは、そうだが」
向坂家の別荘で、矢緒という大学の先輩が、輝理の両手を突然握りしめ、影臣が引き剥がした話や、梨畑の鈴木巳喜八郎と婚約が整った経緯を話したところである。
その当時、別荘にいた清可も、矢緒の話は初耳だった。
「それとも」
清可は、煙草に口を付け、すうっと吸い込み、影臣を避けて煙を吐いた。目を細めている。
「種だけもらって、一生独り身にさせたいか。それなら、臣が隠退するまで輝理さんに、つききりでいられるからな」
影臣は、はっとして清可を見返した。己の気付かぬ心の内を、言い当てられたように思った。
清可もまた、影臣の反応に驚き、頬を硬くした。紙巻煙草を、ぎゅうぎゅうと灰皿へ押し付け、火を消す。キセルと違い、使い捨てなのである。
顔を上げた時には、真剣な面持ちだった。
「臣。お前は、隠退せねばならないのだろ。残された輝理さんを支える人を、潰してどうする」
守護人の隠退の意味を、知っているかのような物言いだった。
当主の交代をもって、守護人もその任を終える。
守護人は、隠退後、速やかに寿命を終わらせなければならなかった。
直接に知るのは、新旧の守護人と、青柳家の継主、向坂家の当主のみである。
先代の守護人、伯父の影治が逝った時、清可は地元の女学校へ通っていた。既に上京していた玄丈よりも、事情を知る機会は、あった。
「そうだな。輝理様が選ばれた人だ。先も長いし、適任かもしれぬ」
「ふっ。婿ではなく、まるで護衛を選ぶようだな」
清可が頬を緩めた。
影臣も微笑み返した。頭の中では、伯父の遺言が巡っていた。
己の欲するところではなく、主人の欲するところに従え。
三智伯母の末路を思うと、当時、そんな箴言を残すとは意外であったが、今の影臣に見合った忠告である。
まだ当人でさえ思いもよらぬうちに、先を見越していたかのようであった。
伯父の境地に至るまでに、随分遠い道のりを歩むことになりそうだ。その時までに、せめて背中が見えるほどには追いつけると良いのだが、と影臣は思った。




