敵か味方か
「歩けますわよ」
学校の敷地を出て、輝理が言った。影臣は止まらない。
「誰に見られるかわからん。背負われておけ」
「はい。お握り、美味しかった」
「それは、良かった」
あとはしばらく無言で進む。向坂家へと向かう辻で、足が止まった。
「どちらへ行きますの」
背中で輝理が問う。影臣は、迷う。
輝理の弁当に、毒が仕込んであった。家人に敵が潜む藤野家には、戻れない。
そして、向坂家は医家である。和実の家でもある。何かと頼りになる。
しかし、誰が敵かわからない。医術は、薬にも毒にもなる。
「うちへ、来てもらう」
「そう。次春は、どうしているのかしら」
そこで、叔父の経四郎を思い出した。何だったか。
背後から駆ける音が追ってきた。影臣は、咄嗟に向坂の方へ折れて、走る。
藤野家と青柳家は、同じ一本道上にある。悪いことに、藤野の方が手前に位置する。確実に敵の居る方へ進むのを、本能的に避けた形だ。
視界の端で、人影を捉える。男だ。見覚えがある。
かと言って、止まれない。知り合いだから味方、とは限らない。
影臣は、走る。
男は、田へ足を踏み入れてきた。
水を抜く時期である。足を泥に取られる心配はないが、稲が倒れると刈りにくいし、収穫も減るため、見つかれば持ち主に怒られる。
命がかかっている時だ。稲に構う余裕はない。
追いつかれる。
背中の輝理を、下ろした。
「走れ。玄哲先生を頼れ」
輝理は、動かなかった。
「治明さんでも、いけませんか」
影臣は、輝理の先を見た。
もう、目の前に迫っていた。
息を切らしつつ、稲を掻き分けてくる男は、影治の配下の一人、向坂治明だった。
「おめっ、速過ぎだろっ。子供背負って、包み、二つ持って。治兄から、何も聞いて、ないのか」
「いや。まったく」
はああっ、と息を吐き、その場へしゃがみ込む。脱力している。影臣に襲われるとも、二人が逃げるとも思っていない。油断し過ぎである。
それで影臣は、彼を敵ではない、と判断した。
「和実と澪と、先生から話は聞いたが、一応お前からも聞きたい。何があった」
影臣は、輝理を見た。家人に毒殺されかけた、と聞かせて良いものか。
「お気になさらず。弁当に、毒でも仕込まれたのでしょう。影臣さんが、ご無事でようございました」
治明が、驚嘆の眼差しで、輝理を見た。
二人の男から視線を集める女児は、平然として見返した。その頬には、飯粒がついていた。
影臣は、飯粒を取ってやった。指先に、ふっくらとした頬の感触が残った。
輝理が言うには、もう、随分と前から、家の中の様子が、おかしかったのだそうである。
それがこの十日ばかり、急に収まって、却って気味悪く思っていたところ、今朝になってばたばたと慌ただしく大人たちが動き出し、何かあるのではないか、と考えたという。
特に聞き質しもしなかったが、今朝方足を挫いたと申告したのも、わからぬながら影臣の仕事を助けるつもりだったかもしれない。
末恐ろしい女子である。この児が藤野家当主に就けば安心、というべきか。
「毒が仕込まれた、と知っていたのか」
影臣もまた、ことの次第を説明した後、輝理に尋ねた。二つ下の女児は微笑む。
「それは、影臣さんが、弁当を差し替えてくださったから」
「影治様の読みが当たったんだな。そうなるように、仕向けたんだろうが」
治明の後半は呟きだったが、影臣には聞き取れた。
向坂家へ向かう途上だった。
「家を巻き込むのは気が進まねえんだが、こうなったら、しょうがねえ」
治明によれば、藤野家の備である継尚と、その守護人である三智が、当主の座を狙って、行動を起こしたらしい。
「叔父様が」
輝理の顔色は悪い。まるで毒を飲んだようである。
「的はご当代様だけかとも思ったんだが。影治様が念の為、こっちにも網を張ったのが、正解だったって訳だ」
守護人の影治は、当主の輝晃に付いている。
互いに知るところを交換し、思案した後、向坂家に預ける輝理の守りを見極めてから、影臣に警護を任せ、治明が藤野家へ向かう手筈となった。
輝理は、しきりと五つ下の弟を心配していた。
「次坊には、お館様と明三が付いている。輝理ちゃん、そんなに心配はいらねえ」
向坂家へ着いた。
「あれま、藤野のお嬢ちゃんと青柳の臣坊じゃないか。学校は、もう終わったかね」
背中の曲がった老婆が、皺に埋もれるほどの笑顔を向ける。鈴木家のご隠居である。
あちらにもこちらにも、ご隠居が座っている。ほぼ全員、鈴木家である。分家が多いのだ。
「お腹が痛くて、早く戻りました」
輝理も笑顔を返した。笑顔どころではない影臣は、黙って頭を下げつつ、藤野のお嬢ちゃんに感心する。
治明は、患者に適当に声掛けしながら、奥へ入って行ったが、すぐに戻ると手招きした。
「診察は、順番があるから、後で、な。昼飯食ってないんだろ。茶飲んで寝たら、治るかもしれねえ。場所を貸してやる」
お年寄りに聞かせるためだろう、随分な大声で言う。影臣と輝理は、彼の後について、中庭を通って一室へ案内された。一隅に、厠と手水鉢がある。
「親父に了解を取った。ここに居れば、まず心配いらんだろう。念の為、うちの者からでも、差し入れには手をつけるな。俺は、藤野家へ行ってくる」
「治明さん。明さんとかは」
影臣は、緊張しながら、その名を口にした。明と士朗は、治明の弟妹にして、三智の配下、すなわち敵方にあたる。
「心配するな。ここにはいない」
そう言う治明の声も表情も、ご隠居たちの前とは打って変わって、暗かった。
それきり、治明は戻らなかった。
影臣は、己が作った弁当を、輝理と分け合って食べ、教科書を広げて自習をして過ごした。
輝理が先に始めたものだ。年上の自分が無為に過ごすことに、引け目を感じたのである。
迎えに来たのは、青柳経四郎だった。穏やかな笑みを浮かべた顔には、隈が浮いている。ちぐはぐな印象が、事の重大さを表しているように思われた。
「大変だったね。輝理ちゃんも、今日はうちへ泊まるよ」
「次春は、どうなりましたか」
「次春くんも、お館様も、うちに居るよ」
「ありがとうございます。ご迷惑を、おかけします」
輝理は、小さな頭を下げた。影臣もつられて頭を下げた。まだ当主になるとも定まらない女児であるが、半日を共にするうちに、己の主のように感じてしまっていた。
「嫌だなあ、隣のよしみじゃないか。臣も、他人行儀は止めてよ」
経四郎はまだ笑っている。取り繕った笑みである。
影臣の心に不安が萌した。
叔父も、敵かもしれない。
伯母は、敵である。影臣に直接害をなさずとも、藤野家当主たるべき輝理に毒を盛った背後には、伯母がいる。今は、輝理の敵すなわち影臣の敵なのだ。
何故なら、と考えて、伯母が毒を入手した報せをもたらしたのは、目の前にいる経四郎であることを、思い出した。
「叔父上。ここに俺たちがいるって、誰から聞いたんだ」
「お館様から頼まれた。お館様は、わざわざうちへ足を運ばれて、桂兄に頭を下げなさったんだ。今頃、藤野家では、奉公人を治明さんと明三が押さえて、詮議の真っ最中だ。とても、子供には見せられない」
「伯父上。治伯父は、まだ戻らないのか」
経四郎の面が剥がれた。笑顔から、急に泣きそうな顔に変わる。
「ああ。ご当代様共々、居所が掴めない。だから、僕が君たちを守るしかないのだよ」
輝理に向かって言った。
これは、もう信用するしかない。影臣は、覚悟を決めた。
寝息が三つに増えて、影臣は安堵した。
青柳家の座敷の前にいる。寝ずの番である。
座敷には、藤野のお館様と次春と、輝理が、親子三人布団へ入っていた。
経四郎は、真実を話していたようだ。
昼間、藤野家で起きた出来事について、影臣はあれ以上、聞かされていない。帰宅後忙しく、お館様から改めて話を聞く暇がなかった。
幼い次春はすぐに寝入ってしまったようだが、残る二人は、長い間ぼそぼそと話し合っていた。内容が聞き取れない音の連なりは、眠気を催す。
昼間、勉強せずに寝ておけば良かった。影臣は、見通しの甘さを反省する。
輝理の弁当は、玄哲医師に預けてきた。影臣が毒の種類を教えると、メモをとりながら感心した。
「耐性だけでなく、味分けもできるとは。して、体の方は、大事ないのだな」
「はい。すぐ吐き出したので」
「出した分も、持っているなら渡しなさい。こちらで調べるから」
毒を調べるという玄哲は、心なしか楽しそうに見えた。影臣の視線に気付いて、釈明する。
「楽しみにでもしないと、やっていられないのだよ。特に、こんな殺伐とした応酬がある時は」
「いつも、ありがたく念じております」
影臣が頭を下げると、その上に手を置かれた。撫でられる。
「うちのも、頼むぞ」
「はい」
やがて、己につけられる配下は、玄哲の子供達である。今、彼の弟妹が相争う事態に、将来を憂えたに違いない。
上に立つ者は、下に付く者を使うだけでなく、守ることも仕事である。
影臣は、玄哲の手に、守護人の責任を感じた。




